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ys10's diary

読み読み書き書き。

コミュニケーションで首が回らなくなってること

 コミュニケーション偏重主義の現代は僕みたいなコミュニケーションに難がある人には非常に辛いものがある。そんなことこれから改善していけば良いじゃんという話ではあるが、それは酷な話で、簡単に変わるものではない。というのも、そもそもの原因が対人不安や緊張感からくるものだから。そして、その期間が長ければ長いほど、癖になってしまった話し方や態度は変えられない。

 

 今僕は自分の現状に不満を持っていて、それをどうにかしようと動き出しているところである。ひとり暮らしを始め、身の回りのことを自分なりの考えをもとにこなし、仕事をうまく進めるための努力なんかも今している。だけど、ことコミュニケーション能力的な改善について具体的なアクションどころか、方策すら練れていないのが現状である。

 

 ここが一番の悩みであり、非常に解決が難しいところである。アクションを起こそうとするほど、モチベーションがゴリゴリ削られている。半ば不貞腐れて諦観に近い感情を覚えることもある。まだプライドが邪魔してるからか、そっち方面のことで失敗したくない、失敗すると立ち直るのに時間を有するからだろうか、動き出そうとする気持ちが弱ってきている。実際に人と接すれば接するほど、自分の存在が弱くなっていく感覚がある。

 

 これに関しては、僕の不得意分野ということもあり、時間が解決してくれるとは思えない。なのでアクションを起こさないと行けないことは頭で分かりつつも、何も行動せず悶々としてる。意味のないことは分かっているけれど、捨てきれないプライドがあって、その不安から立ち往生してしまっているんだと思う。

 

 どうしたらいいだろう、そもそも自分は人が好きじゃないんだろうか、コミュニケーションにある種の煩わしさを感じてしまっていないだろうか、少し自分がわからなくなる時がある…。

今自分がやるべきこと

 ゴールデンウィークも明日で最終日。昨日実家に帰ったくらいしかゴールデンウィーク中の思い出がありませんが、なんとか元気です。

 

 5日間の休暇にそんな期待をかけてなかったからか、終わりが近づいてきてもさしてさみしさを感じない。時間はあっという間に過ぎていくので、今を大事に過ごすことは当然必要なのだけど、前提といて今後の自分の動向を定めた上での毎日だと考えている。昨日は久々にやる気がでて、帰宅してから寝もせずにstruts2でのWebアプリ作成にいそしんでた。

 

 自分が今やるべきは、身の回りのこと、仕事に役立つ知識を蓄えることだと考えている。諸々のことを考えた上で、今自分に必要なことは遊ぶことではなく、自分とひたすら向き合う時間、自分を磨き、大切にすることだと考えている。それがずっと続くわけではないけれど、ある時転機が訪れると信じて、今は妄信的に努力するつもり。

 

 今はとにかく技術的な勉強に勤しむ。そしてそれに夢中になることが、今の自分を支える手段だと考えている。自分に夢中になれるように、自分の考えをしっかり持って、行動して、結果を出して、自信につなげていこう。そうして安定した自尊心を保てるようになると、今閉ざしてしまっている様々な可能性が開けてくるはずである。

 

 安定した自尊心について少し考えてみる。日々鬱憤や不満がすぐに湧いてくる自分に足らないものは自尊心が欠乏してるからだと思う。で、自尊心というものは一種の性格や性質的な側面があると思うので、何かをこなしたり達成したりしたらある時から付与されるとかそんなものではない。自尊心は時間をかけて少しずつ養っていくものだということは何となくわかる。なので、自尊心が養われるような、自分のことを少しでもほめたくなるような生活習慣や、イベントに参加するべきである。

 

 その上で、簡単な指標として、「その日にどういう行動をすれば自分の中で合格点を上げられるか」を考えるのもありだなと考えている。自分をほめてあげたくなるような課題を一つ以上課して、それをクリアできればその日は合格といった感じで。ちょっとしたことだがなんとなく漫然と日々を過ごすよりかはかなり建設的だと思う。そして、クリアできてもできなくても、自分の行動を日記形式で書くというのはよいかもしれない。クリアできなくとも、自分をマイナスに書くのではなく、あくまで前向きな雰囲気で書くこと。それって非常に大事だと思う。

 

 どうしても気分が沈んで何もやる気になれないときもあるけれど、その時は無理する必要はないと思う。自分が勢いのある時に、書けなかった分も書けばよいわけだし。ポジティブに頑張っていきましょう。

 

自分合格力 人生が軽やかになる60点主義のすすめ

自分合格力 人生が軽やかになる60点主義のすすめ

 

 

 

今後の方針について

 2017年4月30日、世間はゴールデンウィークで、僕自身もゴールデンウィークを目前に迎え、今後仕事が新たな展開を迎えていくということもあり、具体的な目標というか指標というか方針を少し考えてみた。寝起きってタイピングも冴えわたるな。とりあえず列挙していこう。

 

 プログラミングの勉強...業務用にC#の勉強、資格用にJavaの勉強、その他業務効率を上げるためにツールについての知識(eclipse, Excel)をつけること。Javaに関してはoracleのJavaSilverの資格取得をひとまず目標とし、それ以外は日々の勉強の中で何らかの指標を立てられたらと思う。

 

 日記...日々の記録や考えたこと、感じたことを何かしらに書く癖をつけられたらと思う。これまで自分が考えていたことなんて基本的に忘れていってて、その都度気分やモチベーションによって考え方は変わっていったりするけれど、なんだか思考が同じところをぐるぐる回っている気がするのである。その時、自分が「新しい気付きを得た」と感じたことも、実は以前の自分がひそかに感じ取っていたりしたことも、もう忘れたが何度かあるかもしれない。なので、自分の思考のログをとっていくという行為は、今後自分の感じ方、考え方を成長させるにあたって必要なことかもしれないと感じている次第である。今こうして思いついたことに関しても、最悪明日になったら忘れているかもしれないから、こうして何かしら「日々の自分の記録をとっていく」という行為は必要と感じている。

 

 筋トレ、柔軟運動...精神と肉体はつながっているというが、本当にその通りだと思う。鍛えればよいというわけでもないけれど、そのほうが精神衛生上も健康的にも自身のあらゆるコンディション的に充実感をもたらしてくれると思う。そして、こういったことを癖づけるのは今が一番やりやすい時期だと思っているし、もし癖づけられたら、今後の健康管理に役に立つ上に、自信にもつながっていくだろう、あらゆる面でメリットがあるので、続けていきたい所存である。ちなみに今日久しぶりに筋トレしてみたけれど、少しやっただけで結構バテたし、既に筋肉痛である。

 

 とまあ、こんな感じである。これらを毎日続けるのは仕事もあるので精神的にも体力的にもきついかもしれないが、毎日といわず、三日に一回とか、週一回とか、そこらへんは今後の自分のモチベーションとか気力とかと相談していきながらやっていきたい所存である。これまで意識が低かったからできないとかではなく、意識高く考えられるときは思いっきり意識高く考えて、自分にどんどん勢いをつけていきたいところである。

 

 

日記の魔力―この習慣が人生を劇的に変える

日記の魔力―この習慣が人生を劇的に変える

 

 

4/17

 昨日のことを少し振り返ろうと思う。昨日はIT技術者を志す学生、はたまた社会人たちの一種の登竜門である基本情報技術者試験を受けに行ってきた。試験一週間前くらいから驚くほどモチベーションが低下して最後の追い上げができず、半分以上あきらめかけてて当日も試験開始時刻を確認しておらず危うく遅刻しかけた(というか遅刻した)けれど、試験後解答速報を見ながら答え合わせしてみると案外通ってそうだった。あきらめないって大事。

 

 正式な合否は一月後くらいに返ってくるので手放しでは喜べないけれど、まあ期待以上の手ごたえでよかったなあと思っている。その一方で、試験中に感じた劣等感に、都合の良い時だけ持ち出される負の感情が少し心残りで、それが今後の自分の不安要素の一つである気がした。

 

 やはり試験会場には半分以上の時間を残して問題を解き終えて退室する猛者がいて、その人と自分を、無駄なことはわかっているつもりでも心の奥で比べてしまっている。それだけならいいのだけど、かなり動揺して問題文が頭に入ってこなくなったりするのはどうかと思ってしまう。そこで悔しさ感じるなら間際もう少し勉強してろよ、と言い聞かせたくなるが、そういう考えても仕方ないところで動揺したりプレッシャーを感じてしまったりするのは間違いなく損でしかない。

 

 まあいくら強がっても自分の感じ方や考えを捻じ曲げるのは難しくて、頭でこうしたほうが良いと思っていても反射的に起こる感情の部分はとりつくろえないので、むしろその感情を肯定していきたいところだけれど、なんというかそれはどうしようもないだろとつっこみたくなるところで負の感情が起こったりするのはやっぱり許容しがたいというか自分を許せなくなるところである。そういう感情にならないように日ごろから常に努力を惜しむなよと厳しい突っ込みを自分に入れるけれど、その勢いはその時だけでやっぱり無理したくない性分なので習慣を変えることは難しい。

 

 誰かが言っていたと思うけど、大人になるというのはどれだけのものをあきらめられるようになるかということらしい。自分がこうしたいという欲求を、満たすことで自分を納得させるのではなく、あきらめることで自分を納得してきているところはあるかもしれない。けれどそんな人生はやっぱりスタンスとして後ろ向きなので、生きている以上は前向きでありたいし、最近はポジティブを心掛けているつもり。無性にネガティブになったりするけれど、どうにかなると信じてやっている最中。

 

 感情のままに書いたので支離滅裂だけど、これはこれで残しておく。

 

Sky

社会人二年目、一人暮らし

 つい一昨日から一人暮らしを始めた。これまで実家の恩恵にどっぷりつかったままヌクヌク暮らしていた自分としてはかつてない一歩である。とはいえ引っ越しの準備の大部分を両親に手伝ってもらったところはまだ抜け切れていない感はあるが、これが最後のすねかじりになる...はずである。たぶん。

 

 若干炎上気味だった案件もひと段落過ぎ、会社では勉強の時間が与えられるという平和な時間を過ごしている。一応客先常駐が決定しているが、時期は来月とだけ知らされている状態で、詳細はまだ決まっていないらしい。なので、部署内に仕事はあれど、本格的にメンバーに加わることはなく、たまにお手伝い程度のタスクを振られたりがあるかもしれないといったところ。とどのつまり暇なのである。

 

 とはいえのほほんと過ごせるわけもなく、直感的にこれは嵐の前の静けさだと考えている。今回収束した案件では幾度となく失敗し、簡単なミスをやらかして自己嫌悪に陥ったり、迫る期限に成果物のことで頭を悩ます日が続いていた。ただ、それは社会人の日々の苦悩として割とありふれたもので、所詮入社数か月の新人が感じる程度のものであることは念頭に置いておかなければならない。それらを踏まえて、今後直面するであろう壁を考えると、逆に今の状態に危機感すら感じるのは僕がいらぬ心配を抱えすぎなだけだろうか。

 

 やたらとビビっているのは、やはり失敗が怖いからだろう。そして、厳密には失敗が起きた後の自分を取り巻く人間関係がどう変化するかを想像するのが非常に怖い。最近特に感じるのは、人間関係を表面上は避けるくせに、人一倍人から認められることを欲しているということ。けれど僕のこの姿勢というかスタンスは、あまり人を寄せ付けるようなものないことは頭でわかってはいるつもり。

 

 もう少し堂々と自分を通せるようになれば、もう少し自然に何事にも望めるんだろうな。そのためには思考停止っぽい回答かもしれないけど、「経験」を積むのが早道なんだろうと思うところで、ただ失敗を恐れている自分は次から次へと経験していくことに非常に抵抗があるというのが悩ましい。まあ、悩みながらも少しずつ変われていけたらいいなーと思う。

Rain

クリスマスを振り返って

今年も今年とてクリスマスなる年末イベントが来たので、ブログを書き始めた去年はしなかったはずの振り返りを今年はやっておこうと思う。何か心境に変化があったわけではなく、その日暮らしで生きてる自分の単なる気まぐれである。

 

 日本のクリスマスはあくまでイベントとしてのクリスマスであり、古来よりの伝統やしきたりに則ってはいない。なので日本人からしたクリスマスとはクリスマスであってクリスマスでない。いや、少なくとも日本にクリスマスという伝統が存在しない以上正式なクリスマスであるとは言えない。とどのつまりその人がクリスマスだと思えばそれはクリスマスだし、平日だと思えば平日なのである。クリスマス言い過ぎてクリスマスが分からなくなってきた。閑話休題

 本題は僕自身のクリスマスである。毎年家族でささやかに贅沢な料理と買ってきたクリスマスケーキを囲むのが恒例であり、それ以上何も望むところがない幸せだとは思う。素晴らしいことである。世には年末多忙を極めて帰ることすら困難なサラリーマンや、一緒にケーキを食べる家族のいない子供だっているだろう。クリスマスが正式な伝統であるアメリカでは、一年に一度キリストに感謝し、家族で祈りを捧げる日なのだ。家族と過ごせてこそ、充実したクリスマスであることは紛れもない事実である。ところがどっこい日本では若干事情が異なる。

 クリぼっちという言葉がある。クリスマス+ぼっち=クリぼっちである。響きこそ可愛らしいが要はクリスマスにひとりぼっちでいる人を指す言葉で、言わば貶し文句である。貶し文句と言われても、これだけでは一体何を貶しているのか分からないが、この「ぼっち」という単語は単なるひとりぼっちの意でないことが理解できれば納得行くはず。

 どうしてそうなってしまったのかは分からないが、日本のクリスマスは恋人同士で過ごすのが美徳とされている。そしてクリスマスを共に過ごすパートナーのいない寂しい奴が「ぼっち」などというワケワカラン言葉で揶揄されてしまうのだ。つまりクリぼっちとは、クリスマスに一緒に身を寄せ合い幸せを分かち合うパートナーのいない果てしなく可哀想で不憫な奴を意味する、言われたら結構ムカつく言葉なのである。

 

 自分のクリスマスを振り返ると言っておきながら前置きが無駄に長くなってしまった。取り敢えず彼女いない歴=年齢の自分は果てしなくクリぼっちなクリスマスを送り続けており、この時期になるとどうしても心に一抹の翳りを感じずにはいられないのである。そんな事感じる必要ないとは思うのだけど、周りがそんなだからどうしても焦りや劣等感が生まれてくる。

 で、今回もそうなのかと言われれば、これまた若干事情は変わる。別に恋人いない歴は絶賛記録更新中だけど、充実度合いで言えばまあまあ充実してたんじゃ?と思えるクリスマスだった。

 ざっと振り返ると、まず23、24、25と祝、土日に休みがあり、世間ではこの3日間がクリスマスデーという雰囲気だった。うち23は旧友といつもの場所で遊び、24は大学の頃の友人とちょっとした遠出をした。近況を報告しあったり、思い出話に花を咲かせたりとまあ楽しかった2日間で、25のクリスマス当日はクリスマスケーキのモンブランを貪り、適当に部屋の掃除なんかしてその後はぐうたら過ごしてた。

 全然悪くない。むしろ充実してた。なんか書いてて楽しくなってきたけど、本当に言いたいことはこんな事ではない。

 

 若者の恋愛離れが続いているという。大きな原因としては、恋人がいなくともそこそこに満ち足りる事だろう。なんだかんだ昔に比べて低価格で美味しい物が食べられ、素晴らしいサービスが受けられる時代だ。一人でもありとあらゆる物が自分を幸せにしてくれる。だからこそわざわざ煩わしい人間関係に頭を悩ませる必要はない。けれど、それがある意味現代の落とし穴のような気がするのだ。

 彼女いなくても今は平気なのだけど、きっとそうはいかなくなる。今の楽に縋って問題視すべき事を後回しにしていては、必ずどこかでツケはやってくるし、また病むことの原因になりかねない。今こそ、現状に不満を抱くことが必要なのだ。

 来年は彼女を作るべく、これまで自分が怠ってきた「人間力」を高めたいと思ってる。勿論出会いを増やす行動も起こしていくつもりだ。なんとなくだけど、来年の目標が定まりつつある。

The Blue Ridge Mountains!

 

頭の栄養となる読書をすべし

今読んでる本が非常に強く共感できて、示唆に富む内容だったので少し紹介してみる。まだ読了はしていないが、読み進めた箇所までの大雑把な所感をば。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 僕にとって初めての岩波新書

 

これまでに感じたことのない読み味でした。「文豪」と語り継がれる人物の残した文章特有の独特な比喩表現であったり、批判の痛烈さだったり思想の不可思議さが、これまで大して文章に触れてこなかった自分にとっては若干消化不良気味に感じてしまったものの、一方で頷いて共感できる箇所もあり、それが自分にとって曖昧な感覚を鮮明に言語化したようで、その箇所はさらっと読めた。以下引用。

 

読書はいってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けていけば仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみてもそれぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩を帯びていて、...

「ある物事がテーマの本を一冊読んで、理解したつもりになっていたが誰かに説明しろといきなり言われたらできない」という文言はよく聞く話。これでは、読んだ本の冊数がステータスになっているような人を除き、本末が転倒している状態といえる。なぜ時間をかけて読んだ内容が頭に残らないのかといえば、ありていに言えば「本当の理解ができていないから」もっといえば、「自分で考えていない」からだろう。

 

 

 読書はあくまで物事を熟考する際の補助輪のような役割であるべきで、主軸はあくまで自分の中にある知識体系に据え置くべきである。自分の中にあれやこれと思索を巡らせることで、断片的だった情報が整理され、はじめて自分の知識として定着される。考えることなしに手放しの読書は、たとえその数が如何に膨大な量を積み重ねたとしても、自分の身にならないということは、初めて間もないとはいえ、読書習慣を続けている僕にも感覚として理解できる。実際に僕がいままで読破してきた本も、すっかり内容が抜け落ちてしまっているものから、他人に自分の考察を交えて内容を説明できるものまであるが、それは内容にどれほど共感できたか、読み進める中で自分の中にどれだけ考えを発生させたかに関係しているように感じる。「そういうものかあ」と納得はできないまま読み進めたものについては印象が強くないどころか、どうしても何か別のことを考えるときに結びつかないし、そうであるが故にどこか別の場面で引用することなく自然に風化していくイメージがある。

 

文脈の流れから理論がつながって、文章上で腑に落ちることも重要な読書体験だが、一番自分に刺激的となるのは、「似たような感覚につながる経験が自分の中にある」ことなのではないだろうか。

  要するに、自分中の経験則が著者の主張の理解を何倍にも増幅させるということである。やはり本当の意味での理解は「共感」無しには得難いところがある。