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ys10's diary

読み読み書き書き。

人生は8割が運要素だと感じる

考えたこと

というのも、人間性や趣味趣向、人格の大部分は環境や偶然的な出来事によって形成されるだろうから。元を辿れば、ヒトとして生命を授かれるかどうかみたいなところから運は始まっていて、その大きな流れの中で当人の意志はあまりに無力だと感じる。何が言いたいかというと、人生は8割が運と感じるわけで、人生の幸福度や充実感も人それぞれで、上を見ても下を見てもキリがなくて、ならもう配られたカードで戦うしかないねという結論なわけだ。戦うと言えば大袈裟になるけど、幸せなら勝ち、不満ばかりなら負けと考えれば、幸福を追い求める人生はある意味勝負事ともとれる。では勝つか負けるかは自分次第かと言われれば、いや運が大きくないかなと感じる。運命信仰も度が過ぎるような気もしつつ、その時のやる気や調子やタイミング何もかもが、そういう時期なんだと考えずにいられないのは、あまり考え方としては良くないのだろうか…

映画「何者」感想

日記 映画

 朝井リョウの「何者」観てきました。一度小説を読んだことがあって、既に面白いのは分かってたので、名だたる俳優陣がどう演技するのかを楽しむつもりで行ってきた。以前小説を読んだ時もブログに感想を書いたけど、今回映画を観て新たに感じることもあったので記録代わりに。

 

 自分に何が出来て、どれ程価値があって、どれだけ充実してて、どれだけ特別か、自分に自尊心(プライド)というものが人並みにでもあり、幸せな人生を送りたいと考えている人(そういう事を考える余裕がある人)なら、そういった気持ちは必ずある。そしてその事をより強く意識させられる人生の一大イベントとして、「就職活動」がある。前進黒スーツに身を包み、大勢が同じように会社説明会に足を運ぶような状況では、外面や装飾で固めていた個性が取り払われ、「内面的な個性やスキル」で自分の自尊心を守るしかなくなるのである。これまで家庭や学生という肩書に守られ、見えないままにされていた自分の本質的な真価が問われる。そんな風潮が、特に日本の就職活動にはある。

 

 勿論自分に絶対的な自信があるような人(それを裏付けるスキルや経歴があり、誰から見てもエリートと呼ばれる人)なんかはそういう部分で困ることはないだろうけど、そういう人はほんの一部で、大部分の人間はまちまちである。(誤解を招きそうな表現だけど、20そこそこの人生経験でその人の良さや個性があふれてる人なんてそうそういないし、それはエリートと言っていい。)その人がこれからどんな事ができるようになってどうなっていくかなんてその時点では分からないのだから、特に自分に自身の持てない就活生からするとそう見えるだろう。自分はその他大勢だということをこれまでの経験から薄々感じつつ、それだけは絶対に認めたくない。そんな自分は認められないという気持ちがある。けれどそう簡単に現実はねじ曲げられない。そこで、「意識高い系」または「批評家気取り」といった考え方に走ってしまうのだろう。どちらも自分のプライドを守るための保身であるにすぎない。そうでないと彼らはやっていけないのだ。

 

 彼らを批判することは誰にも出来ない。誰しも人生を自分の希望通りに運べるわけではないから。自分の人生の価値基準が「自尊心」「認められたい気持ち」にあるなら、現実とのギャップに耐えられるはずがない。

 

 逆にそうでない人も沢山いる。自分のプライドよりも大事なものができたとき、人はそういった部分が満たされなくとも納得して暮らしていける。現実とのギャップに苦しむ自分を認めることだってできる。明確な目標があれば、自分が「何者」かなんて考える必要もなくなる。

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 最後の佐藤健が泣き崩れるシーンでも思ったけど、ヒトは本当に承認に飢える生き物なんだなあと感じた。「承認欲求」なんて使い古された表現に感じるくらいよく目にするけど、そりゃ使いますわ。このご時世ネットで承認欲を埋め合わせてる人なんて少なくないから。

新天地にて

日記

 初出勤から3日が経過した。滑り出しは上々、と言えるわけでもなく、かといって悪い訳ではない。たかだか3日程度で会社との相性なんて分かるわけないし、やってる事もさしたるものでない。けれど、初日から漠然と不安を感じていた前会社に比べればまだマシに思う。続けれそう?と聞かれれば、まあ、なんとか…。と言えるくらいには続けれそう。楽観的にはなれないけど、再出発の場としてはかなり好条件な気がする。

 

 まず感じるのは、仕事以外の自由度。勤務時間内にサボりさえしなければ、あとは本当に自由な風潮だ。極端に言えば、協調性の無い振る舞いなんかも見過ごされる。あくまで個人の問題で、真面目にやって成果も出せば白い目で見られることもない。まあ本当に協調性が無ければ仕事内容や成果にも直結してくるとは思うけど…。良く言えば、社員に無理をさせない(多様な人間性を受け入れる社風)、悪く言えば、そういうパーソナル的な部分まで面倒を見ず放任的であるということ。以前の会社はそういう面で大変面倒見よい会社であったとは思うけど、それが負担となってストレスを抱える社員も少なからずいるはず…僕は仕事内容云々よりそちらに気持ちが負けて辞めてしまった人間なので、今の会社の雰囲気は非常に助かるし居心地は悪くない。

 

 それから、待遇面。残業代がつくというだけで今後の安心感がまるで違う。土日祝休み。福利厚生も完備。繁忙期以外は定時で帰れたりもしてる(らしい)ので、そのあたりも以前の会社に比べ恵まれていると言える。ここまで条件が揃ってるなら、あとはいかに自分が踏ん張れるかというところに尽きる。

 

 勿論不安もある。というか不安のほうが大きい。結局以前の会社を退職した時の自分から、考え方の変化は多少あれど、大して成長していない。今後長い人生を生き抜くには今のままでは不安要素が多すぎる。ひのきの棒では中ボスすら倒すことは困難だ。歳を重ねるだけではレベルアップは難しく、計画的に自分の能力を底上げしてかなくてはならない。大局的に漠然と物事を考えるのは楽だけど、細かいところからコツコツ積み上げられるアクションを起こせるかが、今後の自分を左右するのだろう。まだ自分は未来の自分に無責任な期待を寄せてると感じる今日この頃。

Road

 

映画「聲の形」感想

 最近映画観てないし、なんか見といたほうがいいかもなという謎の義務感を感じて映画館に足を運んだ。正直どうしても見たいというほどでもなかったけど、以前から目星をつけてた「聲の形」をに行ってきた。一言でいえば、下馬評通り感動もの映画で、あんまり映画やドラマで感動しない僕ですらうるっと来てしまった。原作見てるしまあいいでしょと考えてる人にはぜひ見に行ってほしい。

 

 原作のテーマをまったく潰さず、むしろ京アニ映画ならではの良さが引き立ってた。原作ではあけすけに人間関係の醜い部分をさらけ出していたところを、京アニ特有のふわふわ可愛い雰囲気でどう表現するのかと思ったけど、そういう部分はうまく削って尺調整できてた上、表現や言い回しも柔らかくなっているシーンがあったりして、けれどそういう部分は暗に表現されていたあたり、作品全体の雰囲気をまとめた上で原作に忠実に仕上げられててすげーって感じでした。何より原作同様感動できるどころか、映像で視覚的に訴える表現方法だとか、そういう感覚的なところで涙を誘ってきたりして、映画ならでは良さというか、漫画ではこういう表現できないやろなって感じのシーンもあったり、いろいろズルかった。お涙頂戴みたいな、泣かせますっていうよりも、あくまで作品のテーマをメインに作ったら泣ける映画になったみたいなのが感じがなおよかったし、この映画を見て泣ける系×京アニの親和性の良さを感じた。とりあえずこの映画で感動できた!って人で原作未読の方は、映画では明確にしてなかったその時々のキャラクターの心象や裏事情などもわかってくるので、原作のほうをぜひ読んで、もう一度映画を見るとさらに感動できるかもしれない。

 

 それから、なぜこの映画が感動できるかというと、この登場人物たちの苦悩は自分たちも経験したことがあることだからかもしれない。そういうところで共感してしまう節があったり、自分にも同じような経験があったりすると、後半の、西宮と石田がお互いの再会を実感して涙を流すシーンなんかは結構涙腺が耐えられない。逆にそうでない人には、単にお涙頂戴ものに映るかも。テーマとしては、幸せな人生を送るうえで前提になってくる「自己肯定感」があって、大小なりとも人それぞれ多かったり、少なかったりする。何事にもほど良さというものが重要で、それが小さすぎたり、逆に大きすぎたりしても、普段の人間関係のなかでこじれが起きて、生き辛さを感じながら生きている人も多い。そういう考え方や価値観はこれまでの自分の人生経験の中から作られていて、小、中、高と何不自由ない学生生活を送った人は自分に自信をもって堂々と生きられるだろうし、逆に絶えずいじめの標的にされてきた人にとっては、周りは全員敵で、これまでの自分の無様さやそういう考えにとらわれている自分自身にも自身は持てないだろう。これから生きてて楽しいことなんてあるのか?死んだほうが楽なんじゃないだろうか?だったり、自分なんて生きてる価値ないと思い込んでしまっている人もいる。人生を楽しく謳歌している人がいる一方で、いつも死んだように生活している人もいて、けれどその差は、たどれば些細なきっかけだったりして、そういうのって運要素でしかないよなと感じる。この映画は、そういう人生をあきらめかけている人たちへ、少しでも感じ方、考え方を変えるきっかけを与えるようなメッセージが含まれていたように感じる。

 

 とはいえ、石田も西宮も、他人にはわからない苦悩を抱えつつ、お互い救いの手はあって、もう一歩というところで幸せをつかみそこなって苦労していて、最後の最後に報われた形になった。そういう部分を考えると、本当にあらゆる面で救いがない人たちは、また、そう思い込んでいる人たちには、救いの手はあるのだろうか。なんて少し考えて若干もやもやするところはあった。あくまで創作物の中の綺麗ごとなんて捻くれた考えかたをしてしまったけど、あくまで作品は作品で、一コンテンツでしかなく、けれど、そういうことを考えるきっかけを与えてくれた素晴らしい作品だと感じた。

 

 もう少し書くことを考えていたけど、区切りがいいのでここまで。またこのことについて考える機会があれば、加筆修正していきたい。

家に帰ると仕事ができない人

考えたこと 日記

 基本的に家は体を休める場所、というスタンスを貫きたい訳ではないのだが、どうしても家に持ち帰った課題や宿題、タスクに集中して取り組むことが出来ない。出先や帰り道の電車の中では聖人君子もかくやといえるほどの集中力とモチベーションで溢れているのに、帰宅して居間に上がりこんだ辺りから徐々に気力がしぼんでいく。人のエネルギーを吸い取る人形か何かしらが部屋の片隅に置かれてるのではないかしらと勘ぐってしまいそうになる。まあ流石にそんなホラーなアレではないけど、とはいえモチベーションの尋常でない落差は看過できない問題である。それは意志が弱いからや!と良く分からないオッサンに怒鳴られそうだが、そういう根性論とか精神論は聞き飽きた。できる奴ができない奴の気持ちを分かるか。そういう安直極まりない意見よりも、僕が求めているのはやる気を引き起こす抜本的施策である。

 
どうしても気力が沸かなくて、一日怠惰に過ごした、という経験をしたことがある人は少なくないと思う。社会で生きていく以上、多少なりともその日の体の調子や仕事の進捗、対人関係なんかで気分の起伏はあるもの。その中で、何かしら複数の要因が重なって気分が普段よりも上がったり、逆にガクッと急降下することだってある。その一番気分の低調な時が、いわゆる無気力になりがちな状態なのだろう。その日は普段の半分のパフォーマンスも発揮できなかったり、ともすれば布団から出られなくなることだってある。そしてこの低調の周期には個人差があって、メンタルコントロールを上手に操れる人は比較的周期が緩やか。逆に、それが下手で、不安定に揺れ動くメンタルに左右されてると低調期の周期も狭まり、沈んだ日がこまめに訪れることになる。
 
 前者は誰にでもある事で、特別ストレスを抱えていない人でさえそういう症状に悩んだりする。別に稀にあることなので、その日はリフレッシュするために有給とって家でくつろぐなり、大学の講義を休んで普段行かないところへ行ったりするのも良いかもしれない。勉学に励んだり、スポーツに汗を流したり、社会人として書類作成に追われたり、現場から現場へと奔走している日常を送っている人たちにとって、たまの小休止であるに過ぎない。
 
 逆に、後者はどうだろうか。慢性的な無気力、いや、それは無気力というより、自分の怠惰な性格が引き起こした顛末なのか、もはやそれが自分と開き直るしかないのか。それとも他人は普段から自分よりも強固な信念を持って活動している人ばかりなのか…人の心の中は覗けないし、飄々としているようで恐ろしく頑張っているのかもしれないし、結局自分が不甲斐ないだけで、そんな自責の念が襲いかかる中でまだ頑張れずにいる…という負の無限ループ。
 
 某巨大掲示板で一時期流行った「真面目系クズ」という言葉が自分を的確に言い表している。外面は真面目だが、本人はなるべく辛いことや困難を避けたがる性分で、課された課題なんかも最低限やって体裁を見繕うだけで、本質的には全く成長しない。本当に真面目だったり、自分に厳しくストイックに過ごしている人達からすると、軽蔑の的であることに疑う余地はない。世間体ばかり気にして、上辺だけの人格者ほど卑怯でせせこましくて見るに耐えないものはない。
 
 とはいえ、そんな「真面目系クズ」な人達も、必ずしも楽に適当に人生をやり過ごしたいとは思っていない。外では真面目な自分と、誰にも見られてない場所では努力できない自分とのギャップに少なからず苦しんでいる。体裁を保つだけの中身の伴わない真面目さは簡単に見透かされるし、そもそも他人によく思われたいがためにしている行動が自分のその時々の意思決定に立脚していないという不自然さがある。そうして一貫性の欠けた自分への自己嫌悪に陥り、葛藤の挟間で自分がわからないままでいるのだから、深刻な悩みである。それなら最初から自分のしたいことを、したいように、誰にどう見られようと、批判されようと、怯まずに奔放に決めたことをやれれば、どんなに気楽だったか。今からでも遅くはないと言うが、形成されてしまった人格や性質はそう簡単には捻じ曲げられないし、それっぽく見せられるかもしれないが、どうしたって不自然になる。
 
 生まれてきて四半世紀経つのに満足に自分の事もこなせないなんて辛すぎる。自分が何で頑張れるかこの歳になっても分からない。

飲み会を休んだ

日記

飲み会というか、先輩社会二名方が派遣先に常駐なさるそうで、その送別会が今催されてて、本来行くべきだったけど出欠確認には欠席に印しつけて今帰路についてる。ちなみに出欠確認は一昨日メールで送られてきたのだけど、ちょうどその時気分が沈んでて出席にチェックする手がどうも拒否反応起こしてた。即決で意思決定のできない性分なので、「出ないといかんやつやな…いやでもなぁ…明後日か…きついなぁ…」なんて考えてたら期限の時間を少し過ぎてしまっていて、焦って欠席のチェックにクリックした。

 

入社して以来、少ないながらも数回はそういう場に欠席し、慣れないながら頑張ってはいるけど、正直本当に辛い。大人しく口下手会話ベタな上雰囲気が明らかに暗いので同じテーブルについた人達が明らかに敬遠してるのが分かる。気さくな人に偶然話しかけてもらえたとしても、返しが明らかにパッとしないので微妙な空気になって気まずい雰囲気が流れる。自分から積極的に会話に参加しないからというのも分かってはいるが、会話のキャッチボールが苦手で過ぎて、相手の返しに反応できなくなることを想像してしまってどうしても積極的になれない。この場に居てごめんなさい、皆さんでワイワイしてて下さい、僕は見てるだけでいいんでという感覚に陥るが、一人黙ってる奴がいるのは明らかに不自然で、それだけで結局空気悪くなるので本当に辛い。その割に他人からの評価が気になるので、その矛盾が余計に苦しい。人から悪く思われたくないと常に思っているが、明らかに評価が悪くなるような態度をとってしまっていて、それを自覚してるので、黙って座っているだけなのに精神は擦り切れてる感覚。

 

入社して二ヶ月が経つけれど、鬱気味な日々が続いてる。今の会社はそう長くいれないと思う。要因は様々あれど、人間関係が自分の中で一番割合的に大きい。今の自分の人付き合いの悪さを客観的に見て、いつ村八分を受けてもなんら不自然でないくらいだ。原因は主に僕自身で、人見知りというレベルを超えて人嫌いなのではないかと疑い始めた。なぜ他人に必要以上にビクビクしてしまうのか自分でも良く分からない。目を合わせるのが苦痛だったり、相手が話しかけきてくれても言葉が浮かばなくてすぐに返答できなかったり、それが「キモい」と思われてないかが怖い。人に認められたい一方で、自分の挙動に無能感がにじみ出ていて、実際何も出来ない何もわかってない自分を人に悟られたり笑われたりするのが苦しい。何にせよ人と接するのがこれ程苦手だったのかと再認識させられた。

自分が分からない。自分の感情が分からなかったり、言語化が難しかったり、「話す」という行為に苦手意識が染み付いてしまってる。なので、憂鬱な感情や悩みを吐き出せず、自分の中に閉じ込めてしまう。誰とも話したくなくなる。布団の中に閉じこもったり、外をボーっと眺めたりして、数日休めたらまた頑張れるけど、連日会社に行くのが本当にきつい。

 

このまま延々と負の連鎖が続くのだろうかと考えると恐ろしくなる。今後自分がどのように生活していけるかが本当に見えない。生きていく上で最重要項目のコミュニケーション能力が壊滅的なのだから。

雑記と個性の話

考えたこと 日記
カテゴリーに「雑記」はいらないよという話。

http://www.flickr.com/photos/56412930@N00/3761457947

photo by jamelah


本心から、自分の書く文章を読んで雑と思い「雑記」とカテゴライズするわけですが、それだと全ての記事に雑記タグつけないといけないしそれもはやカテゴライズする意味ないのではという気もする。あと、本当に忙しい中時間を捻出して最低限見繕ったような文章なら「雑記」なのだと思うけど、時間をたっぷり使って自分なりに構成を練ってボリュームも増やして言葉も選びつつ丹精込めて書いた文に対して「雑記」としてしまうのは不自然だ。というか不誠実だし精神衛生上良くないと思う。もちろん謙遜の意味で使ってるパターンがほとんどだと思うし、色々書いた後、「拙文失礼致しました」みたいな様式美的な意味合いでもあるから一概には言えないけど、他の人どうこうでなく、少なくとも僕みたいな奴は使ってはいけない。なんというか、割と頑張って書いた文に対して雑記は言い訳じみててみっともないと最近思う。あと、自分なりに納得のいくものができあがってないなどという気持ちは、身の程を把握できてないから出てくるような感想で、寧ろ自分を見ようとしてない、自己否定的な用法での「雑記」を無意識に使ってるとしたら、直ちに止めるべきだと思う。正直他のブロガーさんの記事とか読んでるといつの間にか劣等感の塊みたいになるのですが、その後自分の記事読んで「うわあダメだ。あれもこれも雑記。」の流れで自分を卑下しちゃうことによって上達の意欲を削いでしまってる気がするし、そもそもそれでは何のためにせっかくのブログをやっているのか分からない。自分がこうしてあれこれ書いてるのはなんの為さ。

その流れでついでに言うと、誰かと自分を比較して自分を貶めることは、心理的に自分の個性を殺すことだとも思う。個性というのはどれほど自分に向き合うことに時間を費やすかで研ぎ澄まされていって、それがある一定値を超えると表出したりして他者に魅力的に映ったりするのではないだろうか。だからこそ、他者との「良し悪しの比較」なんてものは非建設的だ。そんなことを考えるなら、自分に意識を向けるべきだと思うし、「自分に夢中になれる」という状態が理想的かもしれない。なんというか、没個性的なのが一番避けるべきことで、やっばり人の顔色伺ったり、角が立つことを恐れて自分を出さなかったりして自分を押し殺していく内に個性は引っ込んでしまうような気もする。とはいえそれが実生活では難しいのが現実で、だからこそこういう場で自己表現しつつ、実は個性を磨いていくということもできるのがブログなのかなと思ったりする。

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

人の心を掴むのは凡庸な文章ではなく、個性的である文章という主張が印象的だった本。