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ys10's diary

読み読み書き書き。

クリスマスを振り返って

今年も今年とてクリスマスなる年末イベントが来たので、ブログを書き始めた去年はしなかったはずの振り返りを今年はやっておこうと思う。何か心境に変化があったわけではなく、その日暮らしで生きてる自分の単なる気まぐれである。

 

 日本のクリスマスはあくまでイベントとしてのクリスマスであり、古来よりの伝統やしきたりに則ってはいない。なので日本人からしたクリスマスとはクリスマスであってクリスマスでない。いや、少なくとも日本にクリスマスという伝統が存在しない以上正式なクリスマスであるとは言えない。とどのつまりその人がクリスマスだと思えばそれはクリスマスだし、平日だと思えば平日なのである。クリスマス言い過ぎてクリスマスが分からなくなってきた。閑話休題

 本題は僕自身のクリスマスである。毎年家族でささやかに贅沢な料理と買ってきたクリスマスケーキを囲むのが恒例であり、それ以上何も望むところがない幸せだとは思う。素晴らしいことである。世には年末多忙を極めて帰ることすら困難なサラリーマンや、一緒にケーキを食べる家族のいない子供だっているだろう。クリスマスが正式な伝統であるアメリカでは、一年に一度キリストに感謝し、家族で祈りを捧げる日なのだ。家族と過ごせてこそ、充実したクリスマスであることは紛れもない事実である。ところがどっこい日本では若干事情が異なる。

 クリぼっちという言葉がある。クリスマス+ぼっち=クリぼっちである。響きこそ可愛らしいが要はクリスマスにひとりぼっちでいる人を指す言葉で、言わば貶し文句である。貶し文句と言われても、これだけでは一体何を貶しているのか分からないが、この「ぼっち」という単語は単なるひとりぼっちの意でないことが理解できれば納得行くはず。

 どうしてそうなってしまったのかは分からないが、日本のクリスマスは恋人同士で過ごすのが美徳とされている。そしてクリスマスを共に過ごすパートナーのいない寂しい奴が「ぼっち」などというワケワカラン言葉で揶揄されてしまうのだ。つまりクリぼっちとは、クリスマスに一緒に身を寄せ合い幸せを分かち合うパートナーのいない果てしなく可哀想で不憫な奴を意味する、言われたら結構ムカつく言葉なのである。

 

 自分のクリスマスを振り返ると言っておきながら前置きが無駄に長くなってしまった。取り敢えず彼女いない歴=年齢の自分は果てしなくクリぼっちなクリスマスを送り続けており、この時期になるとどうしても心に一抹の翳りを感じずにはいられないのである。そんな事感じる必要ないとは思うのだけど、周りがそんなだからどうしても焦りや劣等感が生まれてくる。

 で、今回もそうなのかと言われれば、これまた若干事情は変わる。別に恋人いない歴は絶賛記録更新中だけど、充実度合いで言えばまあまあ充実してたんじゃ?と思えるクリスマスだった。

 ざっと振り返ると、まず23、24、25と祝、土日に休みがあり、世間ではこの3日間がクリスマスデーという雰囲気だった。うち23は旧友といつもの場所で遊び、24は大学の頃の友人とちょっとした遠出をした。近況を報告しあったり、思い出話に花を咲かせたりとまあ楽しかった2日間で、25のクリスマス当日はクリスマスケーキのモンブランを貪り、適当に部屋の掃除なんかしてその後はぐうたら過ごしてた。

 全然悪くない。むしろ充実してた。なんか書いてて楽しくなってきたけど、本当に言いたいことはこんな事ではない。

 

 若者の恋愛離れが続いているという。大きな原因としては、恋人がいなくともそこそこに満ち足りる事だろう。なんだかんだ昔に比べて低価格で美味しい物が食べられ、素晴らしいサービスが受けられる時代だ。一人でもありとあらゆる物が自分を幸せにしてくれる。だからこそわざわざ煩わしい人間関係に頭を悩ませる必要はない。けれど、それがある意味現代の落とし穴のような気がするのだ。

 彼女いなくても今は平気なのだけど、きっとそうはいかなくなる。今の楽に縋って問題視すべき事を後回しにしていては、必ずどこかでツケはやってくるし、また病むことの原因になりかねない。今こそ、現状に不満を抱くことが必要なのだ。

 来年は彼女を作るべく、これまで自分が怠ってきた「人間力」を高めたいと思ってる。勿論出会いを増やす行動も起こしていくつもりだ。なんとなくだけど、来年の目標が定まりつつある。

The Blue Ridge Mountains!

 

頭の栄養となる読書をすべし

書評

今読んでる本が非常に強く共感できて、示唆に富む内容だったので少し紹介してみる。まだ読了はしていないが、読み進めた箇所までの大雑把な所感をば。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 僕にとって初めての岩波新書

 

これまでに感じたことのない読み味でした。「文豪」と語り継がれる人物の残した文章特有の独特な比喩表現であったり、批判の痛烈さだったり思想の不可思議さが、これまで大して文章に触れてこなかった自分にとっては若干消化不良気味に感じてしまったものの、一方で頷いて共感できる箇所もあり、それが自分にとって曖昧な感覚を鮮明に言語化したようで、その箇所はさらっと読めた。以下引用。

 

読書はいってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けていけば仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみてもそれぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩を帯びていて、...

「ある物事がテーマの本を一冊読んで、理解したつもりになっていたが誰かに説明しろといきなり言われたらできない」という文言はよく聞く話。これでは、読んだ本の冊数がステータスになっているような人を除き、本末が転倒している状態といえる。なぜ時間をかけて読んだ内容が頭に残らないのかといえば、ありていに言えば「本当の理解ができていないから」もっといえば、「自分で考えていない」からだろう。

 

 

 読書はあくまで物事を熟考する際の補助輪のような役割であるべきで、主軸はあくまで自分の中にある知識体系に据え置くべきである。自分の中にあれやこれと思索を巡らせることで、断片的だった情報が整理され、はじめて自分の知識として定着される。考えることなしに手放しの読書は、たとえその数が如何に膨大な量を積み重ねたとしても、自分の身にならないということは、初めて間もないとはいえ、読書習慣を続けている僕にも感覚として理解できる。実際に僕がいままで読破してきた本も、すっかり内容が抜け落ちてしまっているものから、他人に自分の考察を交えて内容を説明できるものまであるが、それは内容にどれほど共感できたか、読み進める中で自分の中にどれだけ考えを発生させたかに関係しているように感じる。「そういうものかあ」と納得はできないまま読み進めたものについては印象が強くないどころか、どうしても何か別のことを考えるときに結びつかないし、そうであるが故にどこか別の場面で引用することなく自然に風化していくイメージがある。

 

文脈の流れから理論がつながって、文章上で腑に落ちることも重要な読書体験だが、一番自分に刺激的となるのは、「似たような感覚につながる経験が自分の中にある」ことなのではないだろうか。

  要するに、自分中の経験則が著者の主張の理解を何倍にも増幅させるということである。やはり本当の意味での理解は「共感」無しには得難いところがある。

 

 

最近きついなあと思うこと

考えたこと

 何よりもまず自分の自意識過剰から来る他人に対する不信感と不安と余裕のなさが生む精神的ストレス。本来感じなくても良くて、感じるだけ無駄なしんどさであるけど、たどれば結構昔からそういう考えに囚われてしまうことがしばしばあって、自分の性格として染み付いた癖のようなものだからややこしい。そしてそれが原因で人と深い付き合いが出来ないどころか上辺だけの付き合いまでも満足に出来ていない。その辺を実は人嫌いでもうまく隠してやってる人のように器用にも出来ないし、反射的にオドオドした態度をとってしまって相手にも不信感を与えてしまってる。その相手の反応を見て自分の無能感やら存在意義のなさを感じる始末。

 あまりネットの情報を鵜呑みにしたくはないけど、鬱傾向にあるというのはあながち間違いでもないのかもしれない。ふとしたことで自分の存在価値が揺らいで、その度に傷ついて内省を繰り返してる。こんなのが精神的にまともであるはずがないよなと思う。カウセリングでも行った方が良いのだろうか。両親に相談しても気にしすぎで片付けられてしまうし、こういう重い相談ができる特別な人がいるわけでもない。けれどこの手の原因が自分自身にある悩みは自分で抜け出すのが困難なタイプだろうから、専門家の人に聞いてもらうなり、何かアクションを起こさないといけない。

 その他細かい悩みは諸々あれど、それが和らげば他の事も良くなっていく気はしてる。人と密なコミュニケーションや関わり(飲み会とか)が必要になるイベントがあると、どうしても普段の人間関係が希薄な生活の問題が浮き彫りになる。それは遅かれ早かれ向き合わないといけない問題だし、今はなす術がない状態でアワアワしてる感じなのだけど、根気よく向き合い続ければどうにかなるんだろうか。そういう場に行っても意味ないようで、自分なりに感じてることがあるのだし。痛いところを突かれることもあるけど、明けない夜はないことを信じて頑張るしかない。

Winter Road

 

人生は8割が運要素だと感じる

考えたこと

というのも、人間性や趣味趣向、人格の大部分は環境や偶然的な出来事によって形成されるだろうから。元を辿れば、ヒトとして生命を授かれるかどうかみたいなところから運は始まっていて、その大きな流れの中で当人の意志はあまりに無力だと感じる。何が言いたいかというと、人生は8割が運と感じるわけで、人生の幸福度や充実感も人それぞれで、上を見ても下を見てもキリがなくて、ならもう配られたカードで戦うしかないねという結論なわけだ。戦うと言えば大袈裟になるけど、幸せなら勝ち、不満ばかりなら負けと考えれば、幸福を追い求める人生はある意味勝負事ともとれる。では勝つか負けるかは自分次第かと言われれば、いや運が大きくないかなと感じる。運命信仰も度が過ぎるような気もしつつ、その時のやる気や調子やタイミング何もかもが、そういう時期なんだと考えずにいられないのは、あまり考え方としては良くないのだろうか…

映画「何者」感想

日記 映画

 朝井リョウの「何者」観てきました。一度小説を読んだことがあって、既に面白いのは分かってたので、名だたる俳優陣がどう演技するのかを楽しむつもりで行ってきた。以前小説を読んだ時もブログに感想を書いたけど、今回映画を観て新たに感じることもあったので記録代わりに。

 

 自分に何が出来て、どれ程価値があって、どれだけ充実してて、どれだけ特別か、自分に自尊心(プライド)というものが人並みにでもあり、幸せな人生を送りたいと考えている人(そういう事を考える余裕がある人)なら、そういった気持ちは必ずある。そしてその事をより強く意識させられる人生の一大イベントとして、「就職活動」がある。前進黒スーツに身を包み、大勢が同じように会社説明会に足を運ぶような状況では、外面や装飾で固めていた個性が取り払われ、「内面的な個性やスキル」で自分の自尊心を守るしかなくなるのである。これまで家庭や学生という肩書に守られ、見えないままにされていた自分の本質的な真価が問われる。そんな風潮が、特に日本の就職活動にはある。

 

 勿論自分に絶対的な自信があるような人(それを裏付けるスキルや経歴があり、誰から見てもエリートと呼ばれる人)なんかはそういう部分で困ることはないだろうけど、そういう人はほんの一部で、大部分の人間はまちまちである。(誤解を招きそうな表現だけど、20そこそこの人生経験でその人の良さや個性があふれてる人なんてそうそういないし、それはエリートと言っていい。)その人がこれからどんな事ができるようになってどうなっていくかなんてその時点では分からないのだから、特に自分に自身の持てない就活生からするとそう見えるだろう。自分はその他大勢だということをこれまでの経験から薄々感じつつ、それだけは絶対に認めたくない。そんな自分は認められないという気持ちがある。けれどそう簡単に現実はねじ曲げられない。そこで、「意識高い系」または「批評家気取り」といった考え方に走ってしまうのだろう。どちらも自分のプライドを守るための保身であるにすぎない。そうでないと彼らはやっていけないのだ。

 

 彼らを批判することは誰にも出来ない。誰しも人生を自分の希望通りに運べるわけではないから。自分の人生の価値基準が「自尊心」「認められたい気持ち」にあるなら、現実とのギャップに耐えられるはずがない。

 

 逆にそうでない人も沢山いる。自分のプライドよりも大事なものができたとき、人はそういった部分が満たされなくとも納得して暮らしていける。現実とのギャップに苦しむ自分を認めることだってできる。明確な目標があれば、自分が「何者」かなんて考える必要もなくなる。

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 最後の佐藤健が泣き崩れるシーンでも思ったけど、ヒトは本当に承認に飢える生き物なんだなあと感じた。「承認欲求」なんて使い古された表現に感じるくらいよく目にするけど、そりゃ使いますわ。このご時世ネットで承認欲を埋め合わせてる人なんて少なくないから。

新天地にて

日記

 初出勤から3日が経過した。滑り出しは上々、と言えるわけでもなく、かといって悪い訳ではない。たかだか3日程度で会社との相性なんて分かるわけないし、やってる事もさしたるものでない。けれど、初日から漠然と不安を感じていた前会社に比べればまだマシに思う。続けれそう?と聞かれれば、まあ、なんとか…。と言えるくらいには続けれそう。楽観的にはなれないけど、再出発の場としてはかなり好条件な気がする。

 

 まず感じるのは、仕事以外の自由度。勤務時間内にサボりさえしなければ、あとは本当に自由な風潮だ。極端に言えば、協調性の無い振る舞いなんかも見過ごされる。あくまで個人の問題で、真面目にやって成果も出せば白い目で見られることもない。まあ本当に協調性が無ければ仕事内容や成果にも直結してくるとは思うけど…。良く言えば、社員に無理をさせない(多様な人間性を受け入れる社風)、悪く言えば、そういうパーソナル的な部分まで面倒を見ず放任的であるということ。以前の会社はそういう面で大変面倒見よい会社であったとは思うけど、それが負担となってストレスを抱える社員も少なからずいるはず…僕は仕事内容云々よりそちらに気持ちが負けて辞めてしまった人間なので、今の会社の雰囲気は非常に助かるし居心地は悪くない。

 

 それから、待遇面。残業代がつくというだけで今後の安心感がまるで違う。土日祝休み。福利厚生も完備。繁忙期以外は定時で帰れたりもしてる(らしい)ので、そのあたりも以前の会社に比べ恵まれていると言える。ここまで条件が揃ってるなら、あとはいかに自分が踏ん張れるかというところに尽きる。

 

 勿論不安もある。というか不安のほうが大きい。結局以前の会社を退職した時の自分から、考え方の変化は多少あれど、大して成長していない。今後長い人生を生き抜くには今のままでは不安要素が多すぎる。ひのきの棒では中ボスすら倒すことは困難だ。歳を重ねるだけではレベルアップは難しく、計画的に自分の能力を底上げしてかなくてはならない。大局的に漠然と物事を考えるのは楽だけど、細かいところからコツコツ積み上げられるアクションを起こせるかが、今後の自分を左右するのだろう。まだ自分は未来の自分に無責任な期待を寄せてると感じる今日この頃。

Road

 

映画「聲の形」感想

 最近映画観てないし、なんか見といたほうがいいかもなという謎の義務感を感じて映画館に足を運んだ。正直どうしても見たいというほどでもなかったけど、以前から目星をつけてた「聲の形」をに行ってきた。一言でいえば、下馬評通り感動もの映画で、あんまり映画やドラマで感動しない僕ですらうるっと来てしまった。原作見てるしまあいいでしょと考えてる人にはぜひ見に行ってほしい。

 

 原作のテーマをまったく潰さず、むしろ京アニ映画ならではの良さが引き立ってた。原作ではあけすけに人間関係の醜い部分をさらけ出していたところを、京アニ特有のふわふわ可愛い雰囲気でどう表現するのかと思ったけど、そういう部分はうまく削って尺調整できてた上、表現や言い回しも柔らかくなっているシーンがあったりして、けれどそういう部分は暗に表現されていたあたり、作品全体の雰囲気をまとめた上で原作に忠実に仕上げられててすげーって感じでした。何より原作同様感動できるどころか、映像で視覚的に訴える表現方法だとか、そういう感覚的なところで涙を誘ってきたりして、映画ならでは良さというか、漫画ではこういう表現できないやろなって感じのシーンもあったり、いろいろズルかった。お涙頂戴みたいな、泣かせますっていうよりも、あくまで作品のテーマをメインに作ったら泣ける映画になったみたいなのが感じがなおよかったし、この映画を見て泣ける系×京アニの親和性の良さを感じた。とりあえずこの映画で感動できた!って人で原作未読の方は、映画では明確にしてなかったその時々のキャラクターの心象や裏事情などもわかってくるので、原作のほうをぜひ読んで、もう一度映画を見るとさらに感動できるかもしれない。

 

 それから、なぜこの映画が感動できるかというと、この登場人物たちの苦悩は自分たちも経験したことがあることだからかもしれない。そういうところで共感してしまう節があったり、自分にも同じような経験があったりすると、後半の、西宮と石田がお互いの再会を実感して涙を流すシーンなんかは結構涙腺が耐えられない。逆にそうでない人には、単にお涙頂戴ものに映るかも。テーマとしては、幸せな人生を送るうえで前提になってくる「自己肯定感」があって、大小なりとも人それぞれ多かったり、少なかったりする。何事にもほど良さというものが重要で、それが小さすぎたり、逆に大きすぎたりしても、普段の人間関係のなかでこじれが起きて、生き辛さを感じながら生きている人も多い。そういう考え方や価値観はこれまでの自分の人生経験の中から作られていて、小、中、高と何不自由ない学生生活を送った人は自分に自信をもって堂々と生きられるだろうし、逆に絶えずいじめの標的にされてきた人にとっては、周りは全員敵で、これまでの自分の無様さやそういう考えにとらわれている自分自身にも自身は持てないだろう。これから生きてて楽しいことなんてあるのか?死んだほうが楽なんじゃないだろうか?だったり、自分なんて生きてる価値ないと思い込んでしまっている人もいる。人生を楽しく謳歌している人がいる一方で、いつも死んだように生活している人もいて、けれどその差は、たどれば些細なきっかけだったりして、そういうのって運要素でしかないよなと感じる。この映画は、そういう人生をあきらめかけている人たちへ、少しでも感じ方、考え方を変えるきっかけを与えるようなメッセージが含まれていたように感じる。

 

 とはいえ、石田も西宮も、他人にはわからない苦悩を抱えつつ、お互い救いの手はあって、もう一歩というところで幸せをつかみそこなって苦労していて、最後の最後に報われた形になった。そういう部分を考えると、本当にあらゆる面で救いがない人たちは、また、そう思い込んでいる人たちには、救いの手はあるのだろうか。なんて少し考えて若干もやもやするところはあった。あくまで創作物の中の綺麗ごとなんて捻くれた考えかたをしてしまったけど、あくまで作品は作品で、一コンテンツでしかなく、けれど、そういうことを考えるきっかけを与えてくれた素晴らしい作品だと感じた。

 

 もう少し書くことを考えていたけど、区切りがいいのでここまで。またこのことについて考える機会があれば、加筆修正していきたい。