ys10's diary

読み読み書き書き。

映画「聲の形」感想

 最近映画観てないし、なんか見といたほうがいいかもなという謎の義務感を感じて映画館に足を運んだ。正直どうしても見たいというほどでもなかったけど、以前から目星をつけてた「聲の形」をに行ってきた。一言でいえば、下馬評通り感動もの映画で、あんまり映画やドラマで感動しない僕ですらうるっと来てしまった。原作見てるしまあいいでしょと考えてる人にはぜひ見に行ってほしい。

 

 原作のテーマをまったく潰さず、むしろ京アニ映画ならではの良さが引き立ってた。原作ではあけすけに人間関係の醜い部分をさらけ出していたところを、京アニ特有のふわふわ可愛い雰囲気でどう表現するのかと思ったけど、そういう部分はうまく削って尺調整できてた上、表現や言い回しも柔らかくなっているシーンがあったりして、けれどそういう部分は暗に表現されていたあたり、作品全体の雰囲気をまとめた上で原作に忠実に仕上げられててすげーって感じでした。何より原作同様感動できるどころか、映像で視覚的に訴える表現方法だとか、そういう感覚的なところで涙を誘ってきたりして、映画ならでは良さというか、漫画ではこういう表現できないやろなって感じのシーンもあったり、いろいろズルかった。お涙頂戴みたいな、泣かせますっていうよりも、あくまで作品のテーマをメインに作ったら泣ける映画になったみたいなのが感じがなおよかったし、この映画を見て泣ける系×京アニの親和性の良さを感じた。とりあえずこの映画で感動できた!って人で原作未読の方は、映画では明確にしてなかったその時々のキャラクターの心象や裏事情などもわかってくるので、原作のほうをぜひ読んで、もう一度映画を見るとさらに感動できるかもしれない。

 

 それから、なぜこの映画が感動できるかというと、この登場人物たちの苦悩は自分たちも経験したことがあることだからかもしれない。そういうところで共感してしまう節があったり、自分にも同じような経験があったりすると、後半の、西宮と石田がお互いの再会を実感して涙を流すシーンなんかは結構涙腺が耐えられない。逆にそうでない人には、単にお涙頂戴ものに映るかも。テーマとしては、幸せな人生を送るうえで前提になってくる「自己肯定感」があって、大小なりとも人それぞれ多かったり、少なかったりする。何事にもほど良さというものが重要で、それが小さすぎたり、逆に大きすぎたりしても、普段の人間関係のなかでこじれが起きて、生き辛さを感じながら生きている人も多い。そういう考え方や価値観はこれまでの自分の人生経験の中から作られていて、小、中、高と何不自由ない学生生活を送った人は自分に自信をもって堂々と生きられるだろうし、逆に絶えずいじめの標的にされてきた人にとっては、周りは全員敵で、これまでの自分の無様さやそういう考えにとらわれている自分自身にも自身は持てないだろう。これから生きてて楽しいことなんてあるのか?死んだほうが楽なんじゃないだろうか?だったり、自分なんて生きてる価値ないと思い込んでしまっている人もいる。人生を楽しく謳歌している人がいる一方で、いつも死んだように生活している人もいて、けれどその差は、たどれば些細なきっかけだったりして、そういうのって運要素でしかないよなと感じる。この映画は、そういう人生をあきらめかけている人たちへ、少しでも感じ方、考え方を変えるきっかけを与えるようなメッセージが含まれていたように感じる。

 

 とはいえ、石田も西宮も、他人にはわからない苦悩を抱えつつ、お互い救いの手はあって、もう一歩というところで幸せをつかみそこなって苦労していて、最後の最後に報われた形になった。そういう部分を考えると、本当にあらゆる面で救いがない人たちは、また、そう思い込んでいる人たちには、救いの手はあるのだろうか。なんて少し考えて若干もやもやするところはあった。あくまで創作物の中の綺麗ごとなんて捻くれた考えかたをしてしまったけど、あくまで作品は作品で、一コンテンツでしかなく、けれど、そういうことを考えるきっかけを与えてくれた素晴らしい作品だと感じた。

 

 もう少し書くことを考えていたけど、区切りがいいのでここまで。またこのことについて考える機会があれば、加筆修正していきたい。

家に帰ると仕事ができない人

 基本的に家は体を休める場所、というスタンスを貫きたい訳ではないのだが、どうしても家に持ち帰った課題や宿題、タスクに集中して取り組むことが出来ない。出先や帰り道の電車の中では聖人君子もかくやといえるほどの集中力とモチベーションで溢れているのに、帰宅して居間に上がりこんだ辺りから徐々に気力がしぼんでいく。人のエネルギーを吸い取る人形か何かしらが部屋の片隅に置かれてるのではないかしらと勘ぐってしまいそうになる。まあ流石にそんなホラーなアレではないけど、とはいえモチベーションの尋常でない落差は看過できない問題である。それは意志が弱いからや!と良く分からないオッサンに怒鳴られそうだが、そういう根性論とか精神論は聞き飽きた。できる奴ができない奴の気持ちを分かるか。そういう安直極まりない意見よりも、僕が求めているのはやる気を引き起こす抜本的施策である。

 
どうしても気力が沸かなくて、一日怠惰に過ごした、という経験をしたことがある人は少なくないと思う。社会で生きていく以上、多少なりともその日の体の調子や仕事の進捗、対人関係なんかで気分の起伏はあるもの。その中で、何かしら複数の要因が重なって気分が普段よりも上がったり、逆にガクッと急降下することだってある。その一番気分の低調な時が、いわゆる無気力になりがちな状態なのだろう。その日は普段の半分のパフォーマンスも発揮できなかったり、ともすれば布団から出られなくなることだってある。そしてこの低調の周期には個人差があって、メンタルコントロールを上手に操れる人は比較的周期が緩やか。逆に、それが下手で、不安定に揺れ動くメンタルに左右されてると低調期の周期も狭まり、沈んだ日がこまめに訪れることになる。
 
 前者は誰にでもある事で、特別ストレスを抱えていない人でさえそういう症状に悩んだりする。別に稀にあることなので、その日はリフレッシュするために有給とって家でくつろぐなり、大学の講義を休んで普段行かないところへ行ったりするのも良いかもしれない。勉学に励んだり、スポーツに汗を流したり、社会人として書類作成に追われたり、現場から現場へと奔走している日常を送っている人たちにとって、たまの小休止であるに過ぎない。
 
 逆に、後者はどうだろうか。慢性的な無気力、いや、それは無気力というより、自分の怠惰な性格が引き起こした顛末なのか、もはやそれが自分と開き直るしかないのか。それとも他人は普段から自分よりも強固な信念を持って活動している人ばかりなのか…人の心の中は覗けないし、飄々としているようで恐ろしく頑張っているのかもしれないし、結局自分が不甲斐ないだけで、そんな自責の念が襲いかかる中でまだ頑張れずにいる…という負の無限ループ。
 
 某巨大掲示板で一時期流行った「真面目系クズ」という言葉が自分を的確に言い表している。外面は真面目だが、本人はなるべく辛いことや困難を避けたがる性分で、課された課題なんかも最低限やって体裁を見繕うだけで、本質的には全く成長しない。本当に真面目だったり、自分に厳しくストイックに過ごしている人達からすると、軽蔑の的であることに疑う余地はない。世間体ばかり気にして、上辺だけの人格者ほど卑怯でせせこましくて見るに耐えないものはない。
 
 とはいえ、そんな「真面目系クズ」な人達も、必ずしも楽に適当に人生をやり過ごしたいとは思っていない。外では真面目な自分と、誰にも見られてない場所では努力できない自分とのギャップに少なからず苦しんでいる。体裁を保つだけの中身の伴わない真面目さは簡単に見透かされるし、そもそも他人によく思われたいがためにしている行動が自分のその時々の意思決定に立脚していないという不自然さがある。そうして一貫性の欠けた自分への自己嫌悪に陥り、葛藤の挟間で自分がわからないままでいるのだから、深刻な悩みである。それなら最初から自分のしたいことを、したいように、誰にどう見られようと、批判されようと、怯まずに奔放に決めたことをやれれば、どんなに気楽だったか。今からでも遅くはないと言うが、形成されてしまった人格や性質はそう簡単には捻じ曲げられないし、それっぽく見せられるかもしれないが、どうしたって不自然になる。
 
 生まれてきて四半世紀経つのに満足に自分の事もこなせないなんて辛すぎる。自分が何で頑張れるかこの歳になっても分からない。

飲み会を休んだ

飲み会というか、先輩社会二名方が派遣先に常駐なさるそうで、その送別会が今催されてて、本来行くべきだったけど出欠確認には欠席に印しつけて今帰路についてる。ちなみに出欠確認は一昨日メールで送られてきたのだけど、ちょうどその時気分が沈んでて出席にチェックする手がどうも拒否反応起こしてた。即決で意思決定のできない性分なので、「出ないといかんやつやな…いやでもなぁ…明後日か…きついなぁ…」なんて考えてたら期限の時間を少し過ぎてしまっていて、焦って欠席のチェックにクリックした。

 

入社して以来、少ないながらも数回はそういう場に欠席し、慣れないながら頑張ってはいるけど、正直本当に辛い。大人しく口下手会話ベタな上雰囲気が明らかに暗いので同じテーブルについた人達が明らかに敬遠してるのが分かる。気さくな人に偶然話しかけてもらえたとしても、返しが明らかにパッとしないので微妙な空気になって気まずい雰囲気が流れる。自分から積極的に会話に参加しないからというのも分かってはいるが、会話のキャッチボールが苦手で過ぎて、相手の返しに反応できなくなることを想像してしまってどうしても積極的になれない。この場に居てごめんなさい、皆さんでワイワイしてて下さい、僕は見てるだけでいいんでという感覚に陥るが、一人黙ってる奴がいるのは明らかに不自然で、それだけで結局空気悪くなるので本当に辛い。その割に他人からの評価が気になるので、その矛盾が余計に苦しい。人から悪く思われたくないと常に思っているが、明らかに評価が悪くなるような態度をとってしまっていて、それを自覚してるので、黙って座っているだけなのに精神は擦り切れてる感覚。

 

入社して二ヶ月が経つけれど、鬱気味な日々が続いてる。今の会社はそう長くいれないと思う。要因は様々あれど、人間関係が自分の中で一番割合的に大きい。今の自分の人付き合いの悪さを客観的に見て、いつ村八分を受けてもなんら不自然でないくらいだ。原因は主に僕自身で、人見知りというレベルを超えて人嫌いなのではないかと疑い始めた。なぜ他人に必要以上にビクビクしてしまうのか自分でも良く分からない。目を合わせるのが苦痛だったり、相手が話しかけきてくれても言葉が浮かばなくてすぐに返答できなかったり、それが「キモい」と思われてないかが怖い。人に認められたい一方で、自分の挙動に無能感がにじみ出ていて、実際何も出来ない何もわかってない自分を人に悟られたり笑われたりするのが苦しい。何にせよ人と接するのがこれ程苦手だったのかと再認識させられた。

自分が分からない。自分の感情が分からなかったり、言語化が難しかったり、「話す」という行為に苦手意識が染み付いてしまってる。なので、憂鬱な感情や悩みを吐き出せず、自分の中に閉じ込めてしまう。誰とも話したくなくなる。布団の中に閉じこもったり、外をボーっと眺めたりして、数日休めたらまた頑張れるけど、連日会社に行くのが本当にきつい。

 

このまま延々と負の連鎖が続くのだろうかと考えると恐ろしくなる。今後自分がどのように生活していけるかが本当に見えない。生きていく上で最重要項目のコミュニケーション能力が壊滅的なのだから。

雑記と個性の話

カテゴリーに「雑記」はいらないよという話。

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photo by jamelah


本心から、自分の書く文章を読んで雑と思い「雑記」とカテゴライズするわけですが、それだと全ての記事に雑記タグつけないといけないしそれもはやカテゴライズする意味ないのではという気もする。あと、本当に忙しい中時間を捻出して最低限見繕ったような文章なら「雑記」なのだと思うけど、時間をたっぷり使って自分なりに構成を練ってボリュームも増やして言葉も選びつつ丹精込めて書いた文に対して「雑記」としてしまうのは不自然だ。というか不誠実だし精神衛生上良くないと思う。もちろん謙遜の意味で使ってるパターンがほとんどだと思うし、色々書いた後、「拙文失礼致しました」みたいな様式美的な意味合いでもあるから一概には言えないけど、他の人どうこうでなく、少なくとも僕みたいな奴は使ってはいけない。なんというか、割と頑張って書いた文に対して雑記は言い訳じみててみっともないと最近思う。あと、自分なりに納得のいくものができあがってないなどという気持ちは、身の程を把握できてないから出てくるような感想で、寧ろ自分を見ようとしてない、自己否定的な用法での「雑記」を無意識に使ってるとしたら、直ちに止めるべきだと思う。正直他のブロガーさんの記事とか読んでるといつの間にか劣等感の塊みたいになるのですが、その後自分の記事読んで「うわあダメだ。あれもこれも雑記。」の流れで自分を卑下しちゃうことによって上達の意欲を削いでしまってる気がするし、そもそもそれでは何のためにせっかくのブログをやっているのか分からない。自分がこうしてあれこれ書いてるのはなんの為さ。

その流れでついでに言うと、誰かと自分を比較して自分を貶めることは、心理的に自分の個性を殺すことだとも思う。個性というのはどれほど自分に向き合うことに時間を費やすかで研ぎ澄まされていって、それがある一定値を超えると表出したりして他者に魅力的に映ったりするのではないだろうか。だからこそ、他者との「良し悪しの比較」なんてものは非建設的だ。そんなことを考えるなら、自分に意識を向けるべきだと思うし、「自分に夢中になれる」という状態が理想的かもしれない。なんというか、没個性的なのが一番避けるべきことで、やっばり人の顔色伺ったり、角が立つことを恐れて自分を出さなかったりして自分を押し殺していく内に個性は引っ込んでしまうような気もする。とはいえそれが実生活では難しいのが現実で、だからこそこういう場で自己表現しつつ、実は個性を磨いていくということもできるのがブログなのかなと思ったりする。

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

人の心を掴むのは凡庸な文章ではなく、個性的である文章という主張が印象的だった本。

今年初雪

ようやく僕の地元にも雪が降り始めました。今年は雪降らんなー、遅いなー、と思っていた矢先。しんしん降ってきたって感じでもなく、激しい風とともに大粒の雪が横殴りに吹き荒れる様を窓越しに眺め、趣もあったもんじゃないなーと若干うなだれながら明日の大学の自主休校を画策しております。なんせここ最近の気温の下がり具合が尋常でない。朝の布団から出る一連の動作が僕にとっては苦行以外のなにものでもないです。そりゃ大学も休みがちになるでしょう。といっても卒業に必要な単位はまだ満たしていないとはいえ、これまでは休みなく順調に出席していて、幸い少し休んでもなんとかなるっていう限りなくグレーゾーンに近い安心感頼りに生きてます。

 

http://www.flickr.com/photos/54919337@N03/5362666183

photo by Daniel R Thompson

 

最近のブログ更新がもはや月3回くらいのペースになってて「ブログ運営」の定義によってはブログしてると口に出せないレベルなのですが、最近は無理せずこれでいいような気がしてきた。「書かなければいけない」っていう強迫観念に駆られて自分の首絞めるのは馬鹿らしい気もするし、プロブロガーでない限り必要ないと思う。たぶん「書くことがない!」って言ってるブロガーさんとかは普段から頭にネタをストックできていて書くことが溢れてるのに時たま浮かばなくて「しまったやべえ!」って頭を抱えてる状態だと思うのだけど、要するに「書くことがない状態」が珍しい人が言うことだろう。僕のように普段から書きたいことがなくて、そもそも自分の考えを他人伝わりやすく言語化するという作業がきつく感じているような人は、「アウトプットを想定したインプット」を心掛けつつ、それなりにまとまった文章が書けそうなタイミングで記事にするというのが今のところすべきことなのかなと思ったりする。いきなり分量も内容も充実した文章なんて書けるわけないですし。といっても、それをいつかできるようになるため、今は長期的な充電期間というか、潜伏期間みたいな感じのつもりです。まあインプットだけしてても上達の見込みはないのでアウトプットしつつというところが自分の努力によるところですが。

 

あとは積み本を消化していくのが目下の課題です。いや、その前に卒論か...。ほげええ

劇場版ガールズ&パンツァー観てきた。ガルパンはいいぞ。

提出期限が近づいてるにもかかわらず卒研が進まないモヤモヤを消し飛ばすべく行ってきました。あちこちで「ガルパンはいいぞ。」としか言わずに多くを語らないオタクが増えてると聞いて観に行かずにはいられなかった。ちょこっと雑感をば。


劇場版はアニメ終了後のアフターストーリーのような内容。なのでアニメは先に見ておくべきだと思います。最初にちょろっとおさらいのような事をしてくれるし、正直アニメ好きなら劇場版から見ても十分に楽しめる内容ではあると思いますが、これまでの試合相手が登場するのでキャラは多めになってたり、あとちょっと特殊な世界観なので入り込みたいなら全話視聴してから。アニメ自体結構面白いのでオススメ。流石の水島勉監督。

ネタバレはしたくないので極力内容には触れないですが、やっぱり見所は戦車のドンパチ。映画館だと迫力が段違いでした。アニメがリアルタイムで放送されてた頃はそこまで話題に上がるようなことが無かった(僕が見聞きした限りでは)と思うのだけど、劇場版が素晴らしいといわれるが所以は、やっぱりあの轟音を肌で感じられるところだろう。砲弾の音は最初びっくりするくらいだったけど、この臨場感あってこその、戦車同士の殴り合いが爆発的に映えるのは間違いない。この映画は映画館で見るべき。なんならアニメも映画でやって欲しかった(?)

ガルパンの世界は基本戦車中心で、アニメを見た人は分かると思うけど、戦車道という競技で市街地や民家が破壊されても何故か許される。競技フィールドを生活区域まで広げてしまってたり、砲弾が家屋を貫いても平気で試合観戦してる市民だったり、破壊された道路や建物の修復や修理費はどうするのかとか、色々とガバガバ設定ではある。逆にガバガバ過ぎてそういう所は気にならなくなるというか、ど派手な戦車アクションにそういう裏事情を考えてしまうのは無粋な気がしなくもない。戦車が派手にぶっ放して女の子が可愛ければそれで良いのである。

公開47日目にして興業収入8億円を越したらしい。リピーターが多いのが要因か分からないが、あのアトラクションみたいな爆音体験は確かにもう一度行きたくなる。そういえば前の席に座ってたオタクが4回目とか言ってた気がする。僕も少し時間置いてもう一度観に行く予定です。

さとり世代

ゆとり世代の次?にあたるのかは分からないけど、その時代の若者の特性を指すさとり世代という言葉がある。いつの時代もそうやって若者をひと括りにして、そうして揶揄する当の大人たちは若い頃はそう言われていたことを棚に上げるのはどうなんだと思う。若さゆえの未熟さに難癖つけてるようにしか思えないし、何でもかんでも自分の狭い観測範囲内で見たことだけをさも一般論かのように話す人なんかいるけど、ああいうのを見ると何年生きてるんだ…と呆れてしまう。大人になれば経験も知識量も増えて思慮深くなり、少しずつ偏見が取り除かれて、その先に懐の広さだったり大人特有の余裕みたいなのが生まれてくるのだろうとか思っているのだけど、そんな簡単な話でもないのか。

 
この○○世代って、その時々の時代の特徴を反映した言葉みたいなところがあると思う。今で言うと、スマホの普及によって、多様なSNSでの交流やインターネットのお手軽感が増し、常に大量の情報に晒されるようになったところに「さとり」の要因がある。情報量が増えたといえど、良いものもあれば悪いものもある。その人にとって役に立つものかそうでないか、単純にコンテンツとしての価値の有無だったり、真偽が不明瞭だったり。さておき、未知への探究心が人間の行動原理的に重要な要素だったりするのだと思うけれど、何の行動も起こさず、スマホを片手間に操作すれば知りたいことについてある程度は知れるわけで、知的好奇心は満たされるわけである。これが現代人の行動力を抑制してる原因だったりするのかなーと。勿論利点もある、というか、ネットは賢く使えば利点だらけだと思うのですが、知りたいことから自分の興味の幅が広がっていく感じなんかは、ネットがまだ普及してなかった頃は手軽に感じられる感覚ではないと思うし、個人的にはこの時代に生まれて良かったなーとかも思う。少しそれたけど、ネット上に散らばる情報は玉石混交なわけで、しかも圧倒的に「石」な情報の方が多い。故に余計な、知る必要のない情報なんかも入ってくるけどそれを真に受けてしまうのか、ノイズとして右から左へ受け流せるかでネットの有用性はガラッとかわる。そのあたりはネットリテラシーの話になってくるのでここでは省くけど、ともかく今は情報過多社会で、良くも悪くも人々の行動力を抑制してるらしく、それは自分に当てはめても肯けるところだと思う。で、それらが若者の〇〇離れなんかを引き起こして、総合すると「さとり世代」という流れではないだろうか。
 
あとは生活が豊かになったことなんかもそうだ。十数年前に比べ、科学技術の発達によって何から何まで効率化し、便利になった。食料品は本当に安価でおいしいものが食べられるようになったし、建物や衛生面、ファッションや遊び何から何まで高水準化を遂げた。こういう風に書いてると、それらのサービスを受ける人々はなんて幸せなんだろうと思うけれど、現実は違う。確かに過去に比べれば恐ろしく便利な時代にはなったが、今を生きる僕らにとってはそれが日常で、当たり前のことと認識しているので特にありがたいとも思わない。思っている人もいるかもしれないが、あらゆる技術を開発した先人達に常々感謝の念を抱いてるような人なんてそうそういない。ほとんど意識すらしないだろう。そして、高水準なサービスが当たり前という風潮とは裏腹に、それらを与える側は必死に頭をひねって他社競合と市場競争しているわけで、もちろんサービスの質が上がるとともに社員に求められるスキルも高まっているはず。つまり、便利になればなるほど、一般的な社会人に求められる能力も高くなり、会社でやる仕事内容もハードなものになるんだろうなと思う。となると、企業で働くということは誰にでもできることではなくなってくるというか、「ごくごく一般的なサラリーマン」というさも平凡であるような表現も、サラリーマンという時点ですごいよなと思ったりする。そういうわけで、さとり世代の出世欲の低下や意欲の減退なんて言われているけど、それほど社会に出て活躍する、ということがハードになったからではないだろうか。
 
何となく感じてるあたりをざらっと書いてみたけど、落としどころが分からなくなってきたし何を言いたいかも曖昧だし眠いしでちょっと辛くなってきた。けどせっかくここまで書いたし、雑文でも本来形に残らないはずの自分の考えを言語化したものを消してしまうのはもったいない感じもするし、あとで大幅修正するとして、ひとまず残しておこうと思う。
 
まったくまとまってないけど、さとり世代という言葉から感じることを書いた記事でした。