ys10's diary

読み読み書き書き。

「好き」は才能?

 学校、職場、なんらかのコミュニティ上で暮らすうえで、やはり勉強のできる人、スポーツのできる人、仕事のできる人、なにかしら他人より秀でてるものを持つ秀才達は必ずいて、ある場面で活躍したり、周囲の注目を集めたり、目立ってもてはやされたりしますよね。そしてやはりそういうできる人達は一部の少数派で、そうでない僕ら多数派は「やっぱり天才は違うな、、、」とか、「才能があるっていいよな、、、」なんて卑屈っぽく考えがちで、天才と凡才とに勝手にライン引きしてしまったりしたことはないでしょうか。今はそう思っていなくとも、普段多くの人と接して生活する中で、誰しもそういう感情に遭い、時には後ろめたさを感じた経験はあるはず。最近、「才能」という言葉の意味について少しばかり認識が変わってきたので、思ったことを書こうかと思います。

 元々の僕の認識は単純に、「先天的に備わっている能力」=「才能」でした。例えばある子供にはサッカーの才能が備わっているとして、その子は他の子供達に比べ最初からある程度上手で、テクニックの吸収も早く、それを見た両親はわが子にサッカーの才能を感じ、サッカー用品を買い与えたり、地元のクラブに通わせたりして、そうして周囲との実力はどんどん広がっていき、、、という構図だとばかり考えていました。なんとなくですがこれは世間一般の認識ではないでしょうか。

 ところが、世の「天才」と称えられる人達の殆どが、僕ら一般人からは及びもつかないような努力を重ねているなど、成功人の自伝など読んだことがある人は驚かされたことがあるはず。成功者の裏話を聞くと、必ず陰で途方もない努力と苦労の話がでてきますよね。表舞台で輝いている彼らの姿からは想像もつかないほど、裏で地道な鍛錬に心身を削っている。ふと疑問に思ったのですが、元々才気に恵まれた人間はここまで必死になれるものでしょうか。才能があるから努力できるのではなくて、努力が才能に実った結果が彼らの現在なのではと思います。そして、そこまで必死にやれるっていうのは、他でもなく、ただ「好き」だからなのでしょう。傍目に見て辛そうなことでも楽しければ人間何時間でもやれますよね。何事も極めるとなるととてつもない時間と労力が必要で、壁にふさがれることも多々あると思うけど、苦労に身を投じてでも好きなそれのために犠牲を払うことができる(その人たちにとっては犠牲でもなんでもないし、つらいことひっくるめて楽しいのかもしれませんが)そんな人のみ勝ち得る「才能」なんだと思います。努力しても報われないと言うけど、やっぱりそういう人たちはどこかで一つに集中しきれてないからで、すべてを注ぎ込んでる「天才」達とは差が出るのも止む無しなのではないかな。そして、そんな強い「好き」という気持ちこそが先天的に備わった「才能」なのではないかと思います。生まれ育った環境、家庭によって差異は生じてくるかもしれませんが、そこに関してはなんとなく、ある種の天命めいたものを感じます。

 自分自信に素質を感じなくとも、ひとまず何も考えずに好きなものに打ち込んでみてはどうでしょうか。その「好き」という感情自体が才能なのですから、この分野に才能がある!と盲信してみて、がむしゃらにやるのは大事なことのように思います。

僕自身、後天的にもぎ取りたい才能があるにかかわらず、だらだら過ごしてしまいがちな自分を叱咤する意も込めて書いてみました。

 ではこの辺で。