ys10's diary

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なぜ、あの人の話に耳を傾けてしまうのか?

  題名に惹かれて即決で買ってしまいました。”なぜ、あの人の話に耳を傾けてしまうのか?ー公的言語トレーニングー”。光文社新書は初めて読んだ気がする。

 

 

タイトルを見て、そもそも「公的言語」とは?って疑問が頭に浮かんだと思います。言ってみれば、「公的言語」とは「ソト」のことばのこと。反対に挙げられる、「私的言語」とは「ウチ」のことば。

 

ここでいう「ウチ」と「ソト」の表現は、空間を区切る「内側」と「外側」の意味ではありません。例えば家族や親類、友達といった、普段頻繁に接する親しい間柄内での「ウチ」の関係というような、心理的距離の線引きの表現。対して初めて行く場であったり、初めて会う人達は「ソト」の関係である。そして、「ウチ」で使う「私的言語」と、「ソト」で使う「公的言語」があるということ。具体的には、普段の生活で僕らが友達とおしゃべりしたり、SNS内でくだらないやりとりをしたりするときに用いているのはもっぱら「私的言語」。かたや「公的言語」は、人前にでてスピーチしたり、初対面の人に何かを説明したりするといった場合に使う話し言葉。

 

 普段僕らは無意識のうちにこの公的言語と私的言語を使い分けているのだけど、その切り替えがどうも日本人は苦手らしいのだ。らしいというか、間違いなくそうなんだと思う。スピーチが得意なんて人はなかなか珍しいし、誰かに何かを説明するのだって、いざ話すとなるとうまく考えを整理できなかったり、言葉に詰まったり。「ウチ」ではいくらでも喋れるのに、見知らぬ人やお偉いさん相手となるとどうにも尻込みしてしまうって経験はあると思う。著者はこのことを「私的言語」の肥大化、「公的言語」のやせ細りだと懸念する。そして興味深いのが、この一因に、日本の「察し合い」の文化が絡んでくるという言説。

 

 日本には察することを美徳とする習わしがある。はっきりと示さず、お互いに「察する」ことが奥ゆかしいとさえされる日本の文化だが、公的言語的にこれは毒である。そもそも「察する」という行為はこれまでの相手をある程度認識している人のみができる。互いに共有している情報が多い中、細かい部分をあえて表現する必要がなくなる。なんとなくの不完全な文で会話は通じるのだ。これが落とし穴で、この心地よい「ウチ」の環境にどっぷりつかってしまうと、公的言語が不自由になってしまう。まさに今の若者がそんな状態だという。

 

 一生涯身内のつながりだけで暮らしていくならこういうことに意識を向ける必要がないのだけど、グローバル化が進み、多様な価値観が入り乱れる現代社会で、今や公的言語を使いこなせないようでは生きていけない。全く価値観の異なる相手に対しても堂々と自分を主張して相手に伝えられる能力が必要なのだ。若者ことば風に言うと、コミュ力が高くないといけんってこと。実際就職活動で一番重視されるのはコミュニケーションがとれるかどうかで、ここで公的言語能力を発揮できる若者とそうでない若者に大きな差ができるのはいわずもがな。

 

 で、実際に公的言語を使いこなす有名人の例として小泉元総理とプロゴルファーの石川遼選手が挙げられています。様々なインタビューや受け答えを文面に書き起こして分析しているのですが、確かに「この人の話を聞いていたい!」って気持ちになるし、不思議とその人が魅力的に映りますね。沢山の人に慕われるのもわかる気がする。

 一方話下手はとことん損する時代だなーとも思いました。人としての営みの大半がコミュニケーションなのだから、当然っちゃ当然なのですが。読んでる途中、自分の現状に変に焦りだしたりしたけど、最後の章あたりの、内向型の人もトレーニング次第でうまく立ち回れるという言説に少し勇気づけられました。

 

 コミュニケーションのハウツー本ではなく、コミュニケーションが苦手な人への危機意識を煽ってくれるような内容だったと思う。あと、小泉さんや石川選手のちょっとしたテクニックは非常に勉強になった。

 

 

ところで、若者が公的言語に苦手意識を持って「ソト」側の会話を避けたがるという言説でひっかかるものを感じてたのだけど、以前自分が同じ書いた記事に少し関連性あるようなないような。

 

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