ys10's diary

読み読み書き書き。

「閉塞感」を感じるのは意識の量が足らないから

日常で「閉塞感」を感じることはないだろうか?

肝心なところでつまずいたり、努力に見合う結果が出せなかったり、何事も思い通りにいかないなあってモヤモヤしてしまう。単に自分の能力不足のせいにしたり、環境に原因があるのかもしれない。けれどそれは、自分に「意識の量」が足らないからではないだろうか。「意識の量」なんて自分では測りようもないけれど、もし今自分が不満に感じているのなら、それは意識量の足りなさからくるものであって、多くは意識の量を増やすことによって解決されるとしたらどうだろう。

 

「意識の量」を増やせ! (光文社新書 522)

「意識の量」を増やせ! (光文社新書 522)

 

 

 

意識の量とはなんぞや?

意識の量とは、言い換えれば「気付く」能力である。たとえばこんなことを経験したり、そういう状況をみかけたことはないだろうか。

  • 「これをやったら次にどうなるか」という簡単な予測ができず、ミスを繰り返す
  • 質問しているのに答えない。反応が薄く、聞いてるのか聞いてないのかよくわからない
  • 余裕がない。傍目から見ると、そのテンパり加減のせいで人間関係を壊したり、突然自分の仕事を放りだしてしまったりするんじゃないかと心配になる

これらのように、意識の量が足らない人は場の空気感が読めなかったり、相手の意志をくみ取るのが苦手だったりと、「気付く」能力が致命的に足りない。様々な職種、分野、価値観、身分の人たちと仕事をしなければならない社会人にとって、この能力の有無で仕事量の効率もスピードも変わってくるのではないだろうか。

 

たとえば何らかの食事会で多くの人が集まる状況なんかでも、ふとしたことに気付いて素早く動ける人と、言われるまで何も動けない人がいると思うけど、振る舞い方に大きな違いがある。明らかに前者のほうがデキる奴だし、後者のタイプの人は恐らく仕事はあまりできない人だろう。それに、余裕のある人とそうでない人のちょっとした雰囲気の違いは誰にでもなんとなく伝わるし、意識の量の大小はあっさり見抜かれてしまうものである。

 

僕はどちらかというと完全に意識の量が足らない部類だと思う。複数の事に気を巡らせられなくて、気付いた時には手遅れだったり、意識しておかなければならないことが他の事に意識がいってしまって手持無沙汰に...なんてことがしばしばある。特に初めてアルバイトとして働きだしたときなんかはそうだった。あの頃の状況を思い出すと、たしかに、「意識の量が足らなかった」という表現がなんとなくしっくりくる。

 

気付きの量には個人差があり、意識しようとして変えられるものではないけれど、これは訓練次第で伸ばすことができるそうなのだ。

 

最も効果的なのは、意識を配らないといけないような状況に身を置き続けること。このままではだめだ。どうにかしなくてはという切迫感のもと、意識量を強引に増やしていく。就職して意識の量がガラリと変わる人もいるそうだが、常に気遣いを求められる職場だと、意識の量も引き上げられるのだろう。意識の量は社会力ともいえる。

 

同時に複数のタスクに意識がいかない、どちらかに集中するとどちらかがおざなりになる。そういう場合は自動化領域を増やすとよい。一つのタスクを半自動的にこなせるまで練度を高める。そうすると周りに意識を配る余裕ができてくる。これには慣れが必要で、慣れない仕事に最初から複数の意識をめぐらせるのは誰にとっても難しい。まずは一つのことに集中を割いて、一つずつ自動化できる範囲を広げていくのだ。

 

実は、意識の量はこれまでこなしてきた仕事の経験知でもある。それまで蓄積されたものが多い人はこなす仕事の量も速さも違う。ここがベテランと新人の違いなんだろう。だれしも最初から「デキる人」ではない。ただ、意識の量の変わり方は個人差はあって、恐らくそこが同い年でも差がついてくるところなのだろう。失敗してもなるべくそれを経験知として蓄積し、成功体験も自分の中に積み立てていって、自分なりのメソッドを作り出す。それができる人が多くのことを成功につなげられるのではないだろうか。