ys10's diary

読み読み書き書き。

頭の栄養となる読書をすべし

今読んでる本が非常に強く共感できて、示唆に富む内容だったので少し紹介してみる。まだ読了はしていないが、読み進めた箇所までの大雑把な所感をば。

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 僕にとって初めての岩波新書

 

これまでに感じたことのない読み味でした。「文豪」と語り継がれる人物の残した文章特有の独特な比喩表現であったり、批判の痛烈さだったり思想の不可思議さが、これまで大して文章に触れてこなかった自分にとっては若干消化不良気味に感じてしまったものの、一方で頷いて共感できる箇所もあり、それが自分にとって曖昧な感覚を鮮明に言語化したようで、その箇所はさらっと読めた。以下引用。

 

読書はいってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けていけば仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみてもそれぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩を帯びていて、...

「ある物事がテーマの本を一冊読んで、理解したつもりになっていたが誰かに説明しろといきなり言われたらできない」という文言はよく聞く話。これでは、読んだ本の冊数がステータスになっているような人を除き、本末が転倒している状態といえる。なぜ時間をかけて読んだ内容が頭に残らないのかといえば、ありていに言えば「本当の理解ができていないから」もっといえば、「自分で考えていない」からだろう。

 

 

 読書はあくまで物事を熟考する際の補助輪のような役割であるべきで、主軸はあくまで自分の中にある知識体系に据え置くべきである。自分の中にあれやこれと思索を巡らせることで、断片的だった情報が整理され、はじめて自分の知識として定着される。考えることなしに手放しの読書は、たとえその数が如何に膨大な量を積み重ねたとしても、自分の身にならないということは、初めて間もないとはいえ、読書習慣を続けている僕にも感覚として理解できる。実際に僕がいままで読破してきた本も、すっかり内容が抜け落ちてしまっているものから、他人に自分の考察を交えて内容を説明できるものまであるが、それは内容にどれほど共感できたか、読み進める中で自分の中にどれだけ考えを発生させたかに関係しているように感じる。「そういうものかあ」と納得はできないまま読み進めたものについては印象が強くないどころか、どうしても何か別のことを考えるときに結びつかないし、そうであるが故にどこか別の場面で引用することなく自然に風化していくイメージがある。

 

文脈の流れから理論がつながって、文章上で腑に落ちることも重要な読書体験だが、一番自分に刺激的となるのは、「似たような感覚につながる経験が自分の中にある」ことなのではないだろうか。

  要するに、自分中の経験則が著者の主張の理解を何倍にも増幅させるということである。やはり本当の意味での理解は「共感」無しには得難いところがある。