ys10's diary

読み読み書き書き。

雑記と個性の話

カテゴリーに「雑記」はいらないよという話。

http://www.flickr.com/photos/56412930@N00/3761457947

photo by jamelah


本心から、自分の書く文章を読んで雑と思い「雑記」とカテゴライズするわけですが、それだと全ての記事に雑記タグつけないといけないしそれもはやカテゴライズする意味ないのではという気もする。あと、本当に忙しい中時間を捻出して最低限見繕ったような文章なら「雑記」なのだと思うけど、時間をたっぷり使って自分なりに構成を練ってボリュームも増やして言葉も選びつつ丹精込めて書いた文に対して「雑記」としてしまうのは不自然だ。というか不誠実だし精神衛生上良くないと思う。もちろん謙遜の意味で使ってるパターンがほとんどだと思うし、色々書いた後、「拙文失礼致しました」みたいな様式美的な意味合いでもあるから一概には言えないけど、他の人どうこうでなく、少なくとも僕みたいな奴は使ってはいけない。なんというか、割と頑張って書いた文に対して雑記は言い訳じみててみっともないと最近思う。あと、自分なりに納得のいくものができあがってないなどという気持ちは、身の程を把握できてないから出てくるような感想で、寧ろ自分を見ようとしてない、自己否定的な用法での「雑記」を無意識に使ってるとしたら、直ちに止めるべきだと思う。正直他のブロガーさんの記事とか読んでるといつの間にか劣等感の塊みたいになるのですが、その後自分の記事読んで「うわあダメだ。あれもこれも雑記。」の流れで自分を卑下しちゃうことによって上達の意欲を削いでしまってる気がするし、そもそもそれでは何のためにせっかくのブログをやっているのか分からない。自分がこうしてあれこれ書いてるのはなんの為さ。

その流れでついでに言うと、誰かと自分を比較して自分を貶めることは、心理的に自分の個性を殺すことだとも思う。個性というのはどれほど自分に向き合うことに時間を費やすかで研ぎ澄まされていって、それがある一定値を超えると表出したりして他者に魅力的に映ったりするのではないだろうか。だからこそ、他者との「良し悪しの比較」なんてものは非建設的だ。そんなことを考えるなら、自分に意識を向けるべきだと思うし、「自分に夢中になれる」という状態が理想的かもしれない。なんというか、没個性的なのが一番避けるべきことで、やっばり人の顔色伺ったり、角が立つことを恐れて自分を出さなかったりして自分を押し殺していく内に個性は引っ込んでしまうような気もする。とはいえそれが実生活では難しいのが現実で、だからこそこういう場で自己表現しつつ、実は個性を磨いていくということもできるのがブログなのかなと思ったりする。

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

誰も教えてくれない人を動かす文章術 (講談社現代新書)

人の心を掴むのは凡庸な文章ではなく、個性的である文章という主張が印象的だった本。

今年初雪

ようやく僕の地元にも雪が降り始めました。今年は雪降らんなー、遅いなー、と思っていた矢先。しんしん降ってきたって感じでもなく、激しい風とともに大粒の雪が横殴りに吹き荒れる様を窓越しに眺め、趣もあったもんじゃないなーと若干うなだれながら明日の大学の自主休校を画策しております。なんせここ最近の気温の下がり具合が尋常でない。朝の布団から出る一連の動作が僕にとっては苦行以外のなにものでもないです。そりゃ大学も休みがちになるでしょう。といっても卒業に必要な単位はまだ満たしていないとはいえ、これまでは休みなく順調に出席していて、幸い少し休んでもなんとかなるっていう限りなくグレーゾーンに近い安心感頼りに生きてます。

 

http://www.flickr.com/photos/54919337@N03/5362666183

photo by Daniel R Thompson

 

最近のブログ更新がもはや月3回くらいのペースになってて「ブログ運営」の定義によってはブログしてると口に出せないレベルなのですが、最近は無理せずこれでいいような気がしてきた。「書かなければいけない」っていう強迫観念に駆られて自分の首絞めるのは馬鹿らしい気もするし、プロブロガーでない限り必要ないと思う。たぶん「書くことがない!」って言ってるブロガーさんとかは普段から頭にネタをストックできていて書くことが溢れてるのに時たま浮かばなくて「しまったやべえ!」って頭を抱えてる状態だと思うのだけど、要するに「書くことがない状態」が珍しい人が言うことだろう。僕のように普段から書きたいことがなくて、そもそも自分の考えを他人伝わりやすく言語化するという作業がきつく感じているような人は、「アウトプットを想定したインプット」を心掛けつつ、それなりにまとまった文章が書けそうなタイミングで記事にするというのが今のところすべきことなのかなと思ったりする。いきなり分量も内容も充実した文章なんて書けるわけないですし。といっても、それをいつかできるようになるため、今は長期的な充電期間というか、潜伏期間みたいな感じのつもりです。まあインプットだけしてても上達の見込みはないのでアウトプットしつつというところが自分の努力によるところですが。

 

あとは積み本を消化していくのが目下の課題です。いや、その前に卒論か...。ほげええ

劇場版ガールズ&パンツァー観てきた。ガルパンはいいぞ。

提出期限が近づいてるにもかかわらず卒研が進まないモヤモヤを消し飛ばすべく行ってきました。あちこちで「ガルパンはいいぞ。」としか言わずに多くを語らないオタクが増えてると聞いて観に行かずにはいられなかった。ちょこっと雑感をば。


劇場版はアニメ終了後のアフターストーリーのような内容。なのでアニメは先に見ておくべきだと思います。最初にちょろっとおさらいのような事をしてくれるし、正直アニメ好きなら劇場版から見ても十分に楽しめる内容ではあると思いますが、これまでの試合相手が登場するのでキャラは多めになってたり、あとちょっと特殊な世界観なので入り込みたいなら全話視聴してから。アニメ自体結構面白いのでオススメ。流石の水島勉監督。

ネタバレはしたくないので極力内容には触れないですが、やっぱり見所は戦車のドンパチ。映画館だと迫力が段違いでした。アニメがリアルタイムで放送されてた頃はそこまで話題に上がるようなことが無かった(僕が見聞きした限りでは)と思うのだけど、劇場版が素晴らしいといわれるが所以は、やっぱりあの轟音を肌で感じられるところだろう。砲弾の音は最初びっくりするくらいだったけど、この臨場感あってこその、戦車同士の殴り合いが爆発的に映えるのは間違いない。この映画は映画館で見るべき。なんならアニメも映画でやって欲しかった(?)

ガルパンの世界は基本戦車中心で、アニメを見た人は分かると思うけど、戦車道という競技で市街地や民家が破壊されても何故か許される。競技フィールドを生活区域まで広げてしまってたり、砲弾が家屋を貫いても平気で試合観戦してる市民だったり、破壊された道路や建物の修復や修理費はどうするのかとか、色々とガバガバ設定ではある。逆にガバガバ過ぎてそういう所は気にならなくなるというか、ど派手な戦車アクションにそういう裏事情を考えてしまうのは無粋な気がしなくもない。戦車が派手にぶっ放して女の子が可愛ければそれで良いのである。

公開47日目にして興業収入8億円を越したらしい。リピーターが多いのが要因か分からないが、あのアトラクションみたいな爆音体験は確かにもう一度行きたくなる。そういえば前の席に座ってたオタクが4回目とか言ってた気がする。僕も少し時間置いてもう一度観に行く予定です。

さとり世代

ゆとり世代の次?にあたるのかは分からないけど、その時代の若者の特性を指すさとり世代という言葉がある。いつの時代もそうやって若者をひと括りにして、そうして揶揄する当の大人たちは若い頃はそう言われていたことを棚に上げるのはどうなんだと思う。若さゆえの未熟さに難癖つけてるようにしか思えないし、何でもかんでも自分の狭い観測範囲内で見たことだけをさも一般論かのように話す人なんかいるけど、ああいうのを見ると何年生きてるんだ…と呆れてしまう。大人になれば経験も知識量も増えて思慮深くなり、少しずつ偏見が取り除かれて、その先に懐の広さだったり大人特有の余裕みたいなのが生まれてくるのだろうとか思っているのだけど、そんな簡単な話でもないのか。

 
この○○世代って、その時々の時代の特徴を反映した言葉みたいなところがあると思う。今で言うと、スマホの普及によって、多様なSNSでの交流やインターネットのお手軽感が増し、常に大量の情報に晒されるようになったところに「さとり」の要因がある。情報量が増えたといえど、良いものもあれば悪いものもある。その人にとって役に立つものかそうでないか、単純にコンテンツとしての価値の有無だったり、真偽が不明瞭だったり。さておき、未知への探究心が人間の行動原理的に重要な要素だったりするのだと思うけれど、何の行動も起こさず、スマホを片手間に操作すれば知りたいことについてある程度は知れるわけで、知的好奇心は満たされるわけである。これが現代人の行動力を抑制してる原因だったりするのかなーと。勿論利点もある、というか、ネットは賢く使えば利点だらけだと思うのですが、知りたいことから自分の興味の幅が広がっていく感じなんかは、ネットがまだ普及してなかった頃は手軽に感じられる感覚ではないと思うし、個人的にはこの時代に生まれて良かったなーとかも思う。少しそれたけど、ネット上に散らばる情報は玉石混交なわけで、しかも圧倒的に「石」な情報の方が多い。故に余計な、知る必要のない情報なんかも入ってくるけどそれを真に受けてしまうのか、ノイズとして右から左へ受け流せるかでネットの有用性はガラッとかわる。そのあたりはネットリテラシーの話になってくるのでここでは省くけど、ともかく今は情報過多社会で、良くも悪くも人々の行動力を抑制してるらしく、それは自分に当てはめても肯けるところだと思う。で、それらが若者の〇〇離れなんかを引き起こして、総合すると「さとり世代」という流れではないだろうか。
 
あとは生活が豊かになったことなんかもそうだ。十数年前に比べ、科学技術の発達によって何から何まで効率化し、便利になった。食料品は本当に安価でおいしいものが食べられるようになったし、建物や衛生面、ファッションや遊び何から何まで高水準化を遂げた。こういう風に書いてると、それらのサービスを受ける人々はなんて幸せなんだろうと思うけれど、現実は違う。確かに過去に比べれば恐ろしく便利な時代にはなったが、今を生きる僕らにとってはそれが日常で、当たり前のことと認識しているので特にありがたいとも思わない。思っている人もいるかもしれないが、あらゆる技術を開発した先人達に常々感謝の念を抱いてるような人なんてそうそういない。ほとんど意識すらしないだろう。そして、高水準なサービスが当たり前という風潮とは裏腹に、それらを与える側は必死に頭をひねって他社競合と市場競争しているわけで、もちろんサービスの質が上がるとともに社員に求められるスキルも高まっているはず。つまり、便利になればなるほど、一般的な社会人に求められる能力も高くなり、会社でやる仕事内容もハードなものになるんだろうなと思う。となると、企業で働くということは誰にでもできることではなくなってくるというか、「ごくごく一般的なサラリーマン」というさも平凡であるような表現も、サラリーマンという時点ですごいよなと思ったりする。そういうわけで、さとり世代の出世欲の低下や意欲の減退なんて言われているけど、それほど社会に出て活躍する、ということがハードになったからではないだろうか。
 
何となく感じてるあたりをざらっと書いてみたけど、落としどころが分からなくなってきたし何を言いたいかも曖昧だし眠いしでちょっと辛くなってきた。けどせっかくここまで書いたし、雑文でも本来形に残らないはずの自分の考えを言語化したものを消してしまうのはもったいない感じもするし、あとで大幅修正するとして、ひとまず残しておこうと思う。
 
まったくまとまってないけど、さとり世代という言葉から感じることを書いた記事でした。

My favorite drink

モンスターエナジーという飲み物を知っている人は多いと思う。ほとんどのコンビニに置いてあるし、スーパーでもよく見かける。あの緑の爪痕みたいなロゴがトレードマークの黒い缶の飲み物である。その名の通り、エナジードリンクの一種。

f:id:kascado-ys10:20151212001955p:plain

最初は見た目的に毒々しいし、値段も容量の割に高くて何が良いのかわからなかったのだけど、やはり少し気になったので試しに飲んでみた。

 

第一印象は「美味い!」という感想が出てこなかったのを覚えてる。普通においしいけど、そんな言うほどでもないし、けどちょっと甘さに癖のある独特な感じだなーくらいだったはず。他のエナジードリンクを飲んだときに比べても特別な感想は出てこなかった印象。味は知れたしこんなもんか。と思っていた数日後、偶然駅前の自販機に売られていたのを発見してまた買ってしまった。

 

アサヒ飲料 モンスター エナジー 355ml×24本

アサヒ飲料 モンスター エナジー 355ml×24本

 

 

そんな感じでいつの間にかハマってしまい、僕の中での清涼飲料水ランキングで殿堂入りしそうなくらい好きです。何が好きか、といわれれば、あの「味」。エナジードリンク成分と、よくわからない絶妙な甘さ加減と強炭酸。開缶した時の甘ったるい香りや、喉を通った後のしつこい感じとかが病みつきになってしまった。クセのある味であるがゆえに万人受けするものではないのでおススメしづらさはあるけれど、好きな人はとことん好きになるような中毒性があると思う。

 

いつから好きになったかは忘れたけれど、それからは隔週ペースで欠かさず買うようになりました。たかだかジュース一本で200円もするのはリーズナブルとは言えないけど、今はこれを飲めるなら200円でも払いたいです(笑)。ただカフェインが強い?のかは微妙ですが、結構効くので寝る前にこれを飲むと覚醒してしまって寝れなくなるのがネックかな...

 

種類も結構豊富。

f:id:kascado-ys10:20151205002312j:plain

最近新しい種類も出たりなんかしたけれど、やっぱり一番はオリジナルのモンスターですね。

 

最近ハマっていてやめられない飲み物...という話でした。

勉強計画のススメ

エビングハウス忘却曲線をご存知だろうか。

人間は基本的に忘れる生き物で、一度覚えたことをそのまま長期間覚えておけない。

どんなにインプットに得手不得手があったとしても、こと「忘れること」に関しては個人差はないらしいのだ。エビングハウス忘却曲線とは、一度脳にインプットした情報量がどうのような推移で減少していくかを分かりやすくグラフ化したもの。一般的に、これだけ忘れてしまうのだそうだ。↓

f:id:kascado-ys10:20151120164719p:plain

一度覚えたことを復習せずに放っておくと、たった一日で8割近く忘れてしまってる。
 
記憶した情報の関心度、興味によって左右されるのでは?とも思ったけれど、恐らくこのグラフは、「一度覚えた情報をまったくの手付かずで(記憶を掘り起こしたりすることなく)放置した場合」の観測結果なのではないだろうか。関心あるテーマやお得情報なんかは、実は無意識下で再度思い起こしていたりして、忘却速度を緩めていたり、はたまた維持できていたり、ということではないかな。
 
僕がこの忘却曲線の話を初めて聞いたのは高校生の受験期の頃で、まったく話半分にしか聞いてなかったこともあって実践することは一度もなかった。そもそも胡散臭さすら感じていた。
けれど今思えば、もしこの法則性に信憑性があるなら、勉強がつらく感じる人にとっては少なからず励みになる指標になるような気がする。
 
**************
まず勉強するにあたって、「覚えるまでやらなければいけない」という先の見えない目標が結構な精神的負荷になっていると思う。しかも「覚えるまでの時間」は人それぞれ個人差があり、人によっては短時間で、物覚えの悪い人は何度やっても。。。みたいな風潮があるから余計だろう。実際そんなことはなく、人は皆等しく忘れる生き物だから「自分は物覚えが悪い」という諦観はどこかに置いておくべきだ。
ではどうすれば忘れないか?というと、このエビングハウス忘却曲線を頼ればいいのではないだろうか。
 
上に書いた通り、一日で8割は頭から消えてしまっているので、まずは覚えた日の翌日に復習するといくらか忘れずに済む。これをするだけで全然違うと思うけど、より確実なのは、その後一週間~10日、次は4週間~6週間の間に復習するといいのだそう。それだけで良いんだろうか?とも思うけど、徐々に復習する間隔を開けていくのが定着させるのには適しているらしい。
 
つまり、「この法則性に則ればほぼ確実に覚えられる」という明確な指標というか安心感が見えてくる。権威ある学会での研究結果のようだし、信憑性はあると思うけど、心もとないなら自分なりに忘却曲線を作ってみるのもいいかもしれない。このグラフほど正確にするのは無理だろうけど、大体のさじ加減が分かれば、記憶することや勉強に対する苦手意識は改善できそうな気がする。少なくとも闇雲に覚えようとして、集中的にやった箇所さえも忘れてるなんて事態にはならなさそうだ。
 
ところで僕自身も4月にある資格試験を控えてて試験勉強にいそしむ身なのだけど、それまで半年近くあるし時間は結構あるので今日から実践していくつもり。
とはいえ、自分の記憶量の記録を付けていくのって結構マメさや几帳面さが要るし、その作業自体が大変そうっちゃ大変そうだけど、勉強計画のススメとして参考までに。
 
 
 

このブログについて

当ブログのコンセプト、と言えば少し仰々しいけれど、このブログは一体何なのか、何かを主張したいのか、情報を提供するブログなのか、といったあたりをふと考えてみた。

僕自身何かについて特化しているわけではなく、何か一つのことに心血注げる程の情熱を持っているわけではない。ある特定のジャンルで膨大な知識量もあるわけでなく、目新しいものの見方が出来るというわけではない。人に与えられる知見や情報は何一つ持ち合わせていない。

読まれるブログとは、読者にとって有益なブログのこと。少し砕いて言えば、新たな知識や盲点に気づかせてくれたり、新鮮で刺激がある記事、または文章力(ざっくり言うと)があり、読み手の心に届くような記事なんかがそうだ。

やはりブログを書く以上は読まれるようになりたい。自分の文章は読むに値するものだ!という評価が欲しい。承認欲求を満たしたいのだ。

確かにそれは僕の純粋な欲求ではあるのだけど、もう少し根本的な所、そもそもなぜ「ブログで」認められたいと思うようになったの?というところがなおざりになっていた。このブログを開設した時も、少なからず初期衝動はあって、けれどその衝動は忘却の彼方にあった。

単純に、純粋に、魅力的な言葉、文章に惹かれた。読んだ時に想像の余地が180度変化するような、物事の解像度が増すような文章だ。こんなふうに書けるようになりたいと思った。たまたま見つけたその記事がはてなブログで、はてなでブログを開設したのも、最初はそのブログの読者登録をしたかったからだ。書き始めたのは、「文章力を上げたい」という気持ちからだったと思う。

遠回りしたけど、僕はブログを通じて文章力を上げるために書いている。故に、このブログはあくまで独りよがりなブログだ。偶然誰かの目に止まってもそのままスルーされるようなブログでも良いと思う。けど、ゆくゆくは誰かに「良い文章だ」と評価が得られるよう、何よりもまず「書く」ことを優先したいと思う。一日でも多く、一文字でも多く「書く」。これが今の僕自身の欲求を満たすのに必要なことなのかもしれない。

とまあこんな書いてもどうしようもないようなことすらも記事ネタにしていこうと思っているので、本当にとりとめのない雑記中の雑記になりそうだけれど、一応それがこのブログのコンセプトということで。